麓村(読み)ふもとむら

日本歴史地名大系 「麓村」の解説

麓村
ふもとむら

[現在地名]野尻町東麓ひがしふもと

岩瀬いわせ川東岸、紙屋かみや村の西にあり、北は須木すき(現須木村)、南は岩瀬川を境に笛水ふえみず(現高崎町)後川内うしろかわうち(現高原町)。北部寄りを戸崎とさき川、ほぼ中央部を城之下じようのした川がともに南東流し、当村南東部で岩瀬川に落ちる。肥後街道(宮崎街道)がほぼ東西に通る。南西方猿瀬さるぜには高原たかはる郷麓村(現高原町)とを結ぶ岩瀬川の船渡し猿瀬渡があった。

中世には城之下川南岸に築かれた野尻城を含む地域は野尻と称された。近世初頭以降は鹿児島藩の外城野尻郷の麓村で、地頭館が置かれた。寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳には表高八四八石余。日向国覚書には「大道スチ」との注記があり、また「国堺岩瀬戸ヨリ野尻大道迄六里廾三丁」とも記される。元禄国絵図には麓村のほかに同村のうちの野尻村が記される。「三州御治世要覧」では内高八九二石余。旧高旧領取調帳では高一千二八石余。明暦三年(一六五七)一一月二七日、東郷肥前一行は紙屋村から当村に入り、翌二八日にかけて例竿を行った。当村から案内として衆田爪治右衛門・庄屋井上仲右衛門らが出た。また肥前は二七日の宿を野尻町の安左衛門宅にとっている(「日州諸外城引并例竿日帳」東郷家文書)。文化九年(一八一二)六月一日、伊能忠敬一行は高原から猿瀬渡を越えて当村野尻の止宿前までを測量した。


麓村
ふもとむら

[現在地名]川内市高城町たきちよう

水引みずひき大小路おおしようじ村・宮内みやうち村の北にあり、東は薩摩郡ちゆう中郷ちゆうごう村。ほぼ中央を高城川が南へ流れ、出水いずみ筋が北西に通る。近世初期までは南部の妹背いもせ城跡を中心にして北方を上之かみの村、南方が下之しもの村とよばれていたが、慶長四年(一五九九)以後同城跡南麓に高城郷の地頭仮屋が置かれ(現高来小学校西方)、周辺に麓が形成されて下之村は麓村とよばれるようになったという。永禄一二年(一五六九)冬東郷重尚は島津義久に降り、この際東郷氏から島津氏に進められた所領のうちに高城郷がある(入来院氏系図)。これはのちの麓村・城上じようかみ村にあたるとみられ、翌年正月島津氏から薩州家島津義虎へ宛行われた(「箕輪伊賀覚書」「島津中務大輔家久譜」旧記雑録など)

慶長四年一月九日に島津忠恒(家久)に与えられた豊臣氏五奉行連署知行目録(旧記雑録)には阿久根のうちとして「高城下」とみえ、高五七四石余。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では下之村とあり高五七四石余。


麓村
ふもとむら

[現在地名]高原町西麓にしふもと

高原郷の中心地にあり、東は後川内うしろかわうち村、北西は広原ひろわら村、南は蒲牟田かまむた村、北は小林郷つつみ(現小林市)。小さく蛇行しながら東流する岩瀬いわせ川右岸を占め、南東の前田まえだ(現高崎町)境より広原村へ、小林、飯野いいの(現えびの市)方面へ向かう道が通る。村名の由来は、鹿児島藩領では地頭仮屋を中心に郷士が居住する集落を麓と称し、地内上馬場うえんばばに地頭仮屋が置かれていたことによる。「三州御治世要覧」や「薩藩政要録」に麓村とみえるが、寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳や日向国覚書など幕府に提出された郷帳類にはいずれも高原村と記される。表高四四三石余(前掲高辻帳など)。元禄国絵図には高原村のほかに「高原村之内花堂村」を記す。「三州御治世要覧」には「古ハ高原村、外ニ黒鳥川内此節被召畳蒲牟田江相加候」と、旧村名および村境の変更が記されている。内高四一四石余。旧高旧領取調帳には麓村と記され、高七二四石余。


麓村
ふもとむら

[現在地名]大内町新沢しんさわ

いも川支流の小関こせき川右岸にあり、東は中帳なかちよう村、南は須山すやま村・加賀沢かがさわ村に接する。慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に麓村、正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)にはあら沢麓さわふもと村とあるが、のち新沢あらさわ(「四扱村々肝煎名前帳」岩谷村史資料篇)とよばれ、明治一三年(一八八〇)から新沢しんさわ村となった(羽後国由利郡村誌)

天正一〇年(一五八二)の一部式部少輔宛軍忠状(秋田藩家蔵文書)に「新沢陣於権現堂」とあり、新沢の名が出る。


麓村
ふもとむら

[現在地名]垂水市牛根麓うしねふもと

垂水郷海潟かいがた村の北東に位置し、北側にあたる前面は海に接している。西方に桜島を望み、後方には姶良あいらカルデラの一部にあたる急傾斜の山地が迫り、海岸線に沿って平地が続いている。牛根郷の地頭仮屋が置かれ、牛根村ともいわれる。桜島との間の瀬戸せと海峡を抜ける鹿児島への海路があったが、大正三年(一九一四)桜島の溶岩によって海峡は埋まった。中世の牛根城(入船城)跡がある。天文一四年(一五四五)四月一八日、本田董親に「大隅国之内牛禰三町、同城付辺田三町、二川三町、堺三町」の計一二町が宛行われているが(「島津貴久宛行状」旧記雑録)、このうちの辺田は地内辺田へたに比定される。

寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に牛根村とみえ、高二五五石余。


麓村
ふもとむら

[現在地名]八幡町麓

観音寺かんのんじ村の東にあり、東側は出羽山地で、荒瀬あらせ川が平野部に出る咽頭部に位置する。地内には縄文時代の集落跡、戦国時代の観音寺城跡などがある。初め観音寺村の枝郷であったが、明暦元年(一六五五)分村独立して麓村となり、観音寺村枝郷の荒町あらまちを当村の枝郷とした。荒町は新町とも記し、天正一四年(一五八六)の平藤仙右衛門高名覚書(飽海郡誌)に「観音寺新町」とみえる。元和八年(一六二二)の観音寺村年貢目録(石垣文書)に観音寺村のうち「ふもと分」とある。


麓村
ふもとむら

[現在地名]弥彦村麓

弥彦山から雨乞あまごい山を経て国上くがみ山へ南北に続く山脈の東裾にあり、北は観音寺かんのんじ村、東は村山むらやま村、南東は境江さかえ村。大永七年(一五二七)八月二日の弥彦神社領検地日記(高橋文書)には「からこてん四百苅 二貫文 ふもとの与五郎」などの記載があるほか、「ふくわう寺きわ」「かすた」「ね子かさわ」などの地名がみえる。天正二〇年(一五九二)とも推定される辰六月の弥彦神領注文(弥彦神社叢書)に「黒滝麓村」とみえ、高五六五石九斗余のうち三〇五石余が「社人衆十九人のかかえ分」とある。


麓村
ふもとむら

[現在地名]吾平町麓

北流する肝属川支流姶良あいら川流域にあり、南は姶良郷上名かんみよう村、北は同郷下名しもんみよう村。上名村の南東に飛地の東岳ひがしだけ(神野地区)がある。現吾平町役場の北に姶良庄開発領主平良宗およびその子孫の得丸氏の居城と伝える山古やまふる城跡があり、同城跡の南には姶良郷の地頭仮屋が置かれ、周辺は衆中の屋敷集落となり麓とよばれた。古くは浅井あさい村、姶良浅井村と称した(姶良名勝志)。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では姶良町あいらまち(上名村)に続いて同浅井村とみえ、高五八三石余。


麓村
ふもとむら

[現在地名]田代町麓

現田代町の大半を占め、南西は川原かわばい村。花瀬はなぜ(雄川)の上流部は当村南部を西流して川原村に入り、流れを北西に変える。当村北部を西流する麓川は川原村北部で花瀬川に合流する。「三国名勝図会」に大禰田おおねだ村麓・大禰田村川原がみえ、天保郷帳などでは大禰田村として川原村とともに一括される。麓川と花瀬川の合流点東方の勝尾かつお(田代城)跡の北側に田代郷の地頭仮屋があり、周辺に麓が形成されていた。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に大禰田村がみえ、高一千五二二石余。


麓村
ふもとむら

[現在地名]溝辺町麓

現溝辺町の中央東部に位置し、台地部と山間渓谷部からなる。中世には溝部みぞべ(溝辺)と称されたが、近世に入って鹿児島藩の外城溝辺郷が設置され、当初地頭仮屋が置かれて麓が形成されたのが村名の由来と思われる。ただし天保郷帳など江戸期においても溝辺村の呼称が使用されている。なお宝暦三年(一七五三)地頭仮屋は有川ありかわ村に移転された(溝辺町郷土誌)

天正一九年(一五九一)九月二日・一〇月一九日には、溝辺、加治木かじき三躰堂さんたいどう(現牧園町)の指出が出されている(「肝付兼三指出」喜入肝付家文書)


麓村
ふもとむら

[現在地名]新発田市麓

宮内みやうち村の東、加治かじ(要害山)南麓にあり、南を坂井さかい(今泉川)が西流する。坂井川は、享保一三年(一七二八)紫雲寺しうんじ潟干拓に関連して当村地先で〆切り、姫田ひめだ川に合流させる新河道が開かれた(菅谷川東郷土史料)。同地には〆切しめきりの地名が残る。正保国絵図に村名がみえ、二八〇石余、村上藩領。万治二年(一六五九)の検地帳(新発田市史資料)によると三日市組に属し、田一二町六反余・畑一三町八反余、下畑がかなりある。


麓村
ふもとむら

[現在地名]六日町麓

長森ながもり新田の北、北・東は水尾みずお(現大和町)、西は魚野うおの川を挟んで五日町いつかまち村。東方に城跡のある六万騎ろくまんき山があり、その西麓に集落がある。南麓にはつくり田・古屋敷ふるやしきの地字があり、付近に城主福島氏の居館があったとの伝えがある。「上田士籍」(米沢市立図書館蔵)によると、「上田麓」と注記される者に福島掃部・大石源助・吉田武兵衛・河野弥左衛門・芹沢又次郎がいる。このうち福島掃部は、文禄三年定納員数目録の五十騎衆に宰配頭として福島掃部助の名がみえる。正保国絵図に村名がみえ、高三五二石余。天和三年郷帳では高二一五石余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では田一三町九反余・畑九町六反余、家数二四、男八七・女四九、馬一三。


麓村
ふもとむら

[現在地名]北条市麓

粟井あわい川上流の山村。大河内おおこうち牛谷うしだに小川谷こがたに平林ひらばやしきやく柳谷やないだに菅沢すげざわ(現松山市)の村々に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「麓村」とみえ、村高は一二〇石七斗七升、うち田方七二石四斗三升五合、畑方四八石三斗三升五合とある。

村の東の横山よこやま横山城跡がある。河野氏の分流南氏の居城で、天正一三年(一五八五)の河野氏の滅亡まで存続した。


麓村
ふもとむら

[現在地名]富士宮市麓

猪頭いのかしら村の北、富士山西麓の高原地帯に立地する。天文二〇年(一五五一)八月二日の今川義元朱印状(竹川文書)に「富士金山」がみえるが、これは当地にあった今川氏の金山で麓金山とも称された。義元は太田掃部丞に富士金山への荷物五駄を毎月六度運送することを認めている。天正五年(一五七七)一二月一九日、武田家家臣の穴山信君は「富士山之内川胡桃場藤左衛門後家跡」の家屋敷と堀間(金山の坑道)ならびに郷中山林を竹河(竹川)肥後守に安堵している(「穴山信君判物」同文書)


麓村
ふもとむら

[現在地名]北勢町麓村

中山なかやま村の西、員弁川支流のあお川の北に位置する。治田はつた郷八ヵ村の一つ。「五鈴遺響」に「治田山ノ麓ニ民居ス、故ニ名ク」とある。「員弁雑志」に「麓村之西ニ城山在、治田山城守居城之旧地也、永禄年中滝川一益カ為ニ滅亡ス」とあり、中世の末、国人領主治田山城守の本拠地であったと思われる。慶安郷帳(明大刑博蔵)によれば、幕府領で高一四七・六五石。他の七村同様、享保一一年(一七二六)から明治維新まで上総一宮藩領。「員弁雑志」によれば、文政三年(一八二〇)の人口は一八三、うち男九〇・女九三であった。


麓村
ふもとむら

[現在地名]内子町石畳いしだたみ

小田おだ川支流ふもと川の上流西岸、標高四五〇―五〇〇メートルの山村。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴うけな郡の項に「麓村 日損所、茅山有」とあり、村高九二石余の小村。大洲藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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