改訂新版 世界大百科事典 「小田氏」の意味・わかりやすい解説
小田氏 (おだうじ)
中世の常陸国の豪族。下野の豪族宇都宮宗綱の次子八田知家を祖とする。知家は父宗綱の所領の一つである,現在の茨城県下館市八田を本拠とし八田武者所(はつたむしやどころ)と称した。治承・寿永の内乱に際し,知家はいち早く源頼朝に従い,常陸国内の諸勢力を圧して,同国内の軍事指揮権(のちの守護)を与えられた。のち筑波山の南麓,現在のつくば市小田へ本拠を移し,小田氏を名のる。在来の大勢力であった常陸平氏を圧迫して,常陸国の南半分を勢力下においた。知家の長子知重は小田を名のって常陸守護職を伝え,次男有知は美濃国伊自(志)良荘を継ぎ,三男知基は下野茂木へ分流して茂木氏を名のり,四男家政は小鶴荘(のちの宍戸荘)を受け継いで,宍戸氏の祖となる。このほか多くの子息が,常陸のみならず,各地の所領を継承して一家を興している。本宗の小田氏および庶流の宍戸氏は鎌倉時代を通じて,常陸守護の任に就いた。4代の時知は,西大寺流律宗の忍性(にんしよう)を外護,1252年(建長4)一族の寺である,三村山清涼院極楽寺に忍性を迎え,以後10年にわたり,この地方は律宗の関東地方における拠点となった。筑波の峰続きの三村山を中心に,西大寺流の律宗の展開を示す石造物が多く現存している。14世紀以降小田氏の勢力は,常陸に進出する北条氏の勢力に圧迫され昔日の勢いを失う。そのためもあって建武の内乱の際,当主高知は後醍醐天皇に味方し,天皇の諱(いみな)の1字を与えられ,治久と名のる。しかし旧領の大部分は足利氏が獲得している。1338年(延元3・暦応1)治久は小田城に北畠親房を迎え,常陸国内では激しい戦いが展開するが,41年(興国2・暦応4)治久は高師冬に降服した。以後,同氏の勢力は退潮し,庶流の宍戸氏の勢力のほうが盛んになる。1573年(天正1)小田城が落ち15代の当主氏治(天庵)は土浦へのがれたが,翌年佐竹氏およびその息のかかる真壁,梶原,北条氏らの攻撃を受け,土浦城で敗北し,小田氏本宗は滅びた。
→小田城
執筆者:堤 禎子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報