戸狩村(読み)とがりむら

日本歴史地名大系 「戸狩村」の解説

戸狩村
とがりむら

[現在地名]飯山市大字照里てるさと

戸苅とがり村とも書く(川中島四郡検地打立之帳)長峰ながみね丘陵の北端、広井ひろい川の千曲川への合流点に立地する。東は水沢平みずさわだいら常盤平ときわだいら、西は外様平とざまだいら

応永八年(一四〇一)市河刑部大輔入道(頼房)の所領を安堵した斯波義将安堵状(市河文書)に「北鳥狩村内堂原在家壱宇」が含まれるのが初見。同九年の細川慈忠遵行状・伊勢道券打渡状(同文書)にも「北鳥狩郷内堂原」がみえるが、堂原どうはらという地名が現在のどこにあたるかは不明。享禄三年(一五三〇)下諏訪秋宮造宮帳の「秋宮二之御柱造宮料之次第」に「合六貫文 北戸狩・同こくまい・南戸狩・同黒井くろい 取手大祝」とあり、戸狩に造宮料が課せられている。広井川流域の低地を境とし南方長峰丘陵側を南戸狩、北方岡の峰側を北戸狩と推定。

戸狩村
とがりむら

[現在地名]山ノ内町大字戸狩

夜間瀬よませ川を隔て、箱山はこやま丘陵に沿って南北に長く発展しており、東は佐野さの村、北は夜間瀬村に接し、丘陵頂上をもって中野なかの町と境する集落で、箱山峠を越えて中野町に通じる。

嘉暦四年(一三二九)三月、諏訪社上社の玉垣五間を須毛すげ郷とともに造宮しているのが初見である(「大宮御造栄之目録」諏訪大社上社文書)。享禄年中(一五二八―三二)よりの慣例で天正六年(一五七八)二月には、同社瑞籬三間の造宮に南北両戸狩郷で二貫八〇〇文を負担している(「上諏訪大宮同前宮造宮帳」諏訪大社上社文書)。続いて翌七年二月、武田勝頼筑摩ちくま小野おの社の造宮を高井郡の諸村に命じたが、この地方では、戸狩をはじめ、佐野・田中たなか西条にしじよう小田中こだなか更科さらしな大熊おおくま江辺えべ木島きじま中村なかむら市川いちかわ等が勤仕している(「武田勝頼朱印状」小野文書)

戸狩村
とがりむら

[現在地名]瑞浪市明世町戸狩あきよちようとがりまつ瀬町せちよう

蛇行しながら西へ流れる土岐川北岸にあり、東は寺河戸てらかわど村。した街道が東西に走る。小里家譜(阿子田文書)所収の天正一〇年(一五八二)一二月六日付の知行方目録に「とかり分」七五貫文がみえ、織田(神戸)信孝から小里光明へ宛行われている。慶長郷帳では高四八六石余で旗本遠山民部(利景)領。正保郷帳では田四四六石余・畑七四石余、うち遠山領四八六石余、幕府領三五石余となっている。

戸狩村
とがりむら

[現在地名]板倉町戸狩

別所べつしよ川左岸に位置し、東は長嶺ながみね村、西は稲増いなます村、北は別所川を隔てて松之木まつのき(現上越市)に接する。正保国絵図に「戸島村」と記され、高三四四石余。天和三年郷帳では高三六二石余、うち山高三石二斗のほか、新田高一一五石余が記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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