所沢村(読み)ところざわむら

日本歴史地名大系 「所沢村」の解説

所沢村
ところざわむら

[現在地名]所沢市宮本町みやもとちよう一―二丁目・松葉町まつばちよう喜多町きたまち北有楽町きたゆうらくちよう元町もとまち寿町ことぶきちよう日吉町ひよしちよう東町あずまちよう御幸町みゆきちよう有楽町ゆうらくちよう旭町あさひちよう西新井町にしあらいちよう中新井なかあらい・中新井一―五丁目・並木なみき花園町はなぞのちよう泉町いずみちよう弥生町やよいちよう美原町みはらちよう東新井町ひがしあらいちよう緑町みどりちよう二丁目・北原町きたはらちよう・くすのきだい所沢新町ところざわしんまち

狭山丘陵東端北側、武蔵野台地のほぼ中央にあり、南は久米くめ村、北は平塚ひらつか新田、西は上新井村、東は下新井村・上安松かみやすまつ村。江戸秩父道が南東から北西へと通り、近世中・後期には宿町として栄えた。中世は鎌倉街道上道の本道がほぼ南北に縦断し、「風土記稿」には本宿ほんじゆく・上宿・中宿・下宿・裏宿うらじゆく・河原宿などの小名は宿駅の跡としている。嘉元三年(一三〇五)五月八日の長井長家譲状案(小杉本淡路古文書)によれば、長家からおとはち丸に譲られた久米郷の内に「ところさわのしゆく」三分の一があった。文明一八年(一四八六)聖護院道興は大塚の十玉おおつかのじゆうぎよく(現志木市)に滞在中「ところ沢といへる所へ遊覧」に行き、観音寺(現新光寺)で福泉という山伏から酒と薯蕷の肴の接待を受けて、「野遊のさかなに山のいもそへてほりもとめたる野老沢かな」と詠んでいる(廻国雑記)。地名は野老沢ところざわとも記される。天正七年(一五七九)八月二七日には京都聖護しようご院門跡から篠井ささい(現狭山市)の観音堂に所沢衆分の旦那職が安堵され(「聖護院門跡御教書」篠井文書)、翌八年六月七日には北条氏照判物(同文書)により承認された。

近世には入間いるま山口やまぐち領に属した(風土記稿)。天正一九年五月三日梶光助が「所沢之郷之内」三〇〇石を宛行われた(「徳川家康知行宛行状」愛知県梶家文書)。文禄四年(一五九五)光助が没すると同家は断絶(寛政重修諸家譜)。田園簿では高五〇〇石で皆畑、幕府領(二〇〇石)と旗本内藤領(三〇〇石)。寛文元年(一六六一)内藤領分は仙波東照宮に寄進された川越藩大仙波おおせんば(現川越市)の替地として同藩領となり、同四年の河越領郷村高帳では高三三〇石余、反別は畑七一町余とある。


所沢村
ところさわむら

[現在地名]白井町七次台ななつぎだい四丁目など

野口のぐち村の北、神崎かんざき川左岸に位置し、北から西にかけてその支流七次ななつぎ川が流れる。川沿いに田地があり、居村は橋本はしもと村に近い東側の台地下にある。沢とも記された。平塚ひらつか方面から木下きおろし道の本道へ抜ける鮮魚道が通り、わし神社下の庚申塚には松戸道と行徳ぎようとく道の道標のついた享和三年(一八〇三)庚申塔がある。慶長七年(一六〇二)八月四日の印西外郷白井郷之内沢村検地帳(中村家文書)によると反別六町八反余、名請人五人のうち屋敷持二人でほとんどの土地を所有していた。


所沢村
ところざわむら

[現在地名]保原町所沢

富沢とみざわ村の北、丘陵地帯に位置し、集落は北流する東根ひがしね川沿いに点在する。字郡山こおりやまに条里遺構がみられる。字限図(県文化センター蔵)をみると一町四方に区画された中に「郡山」と記されており、伊達郡衙が桑折こおり(現桑折町)と前後して当地にあった可能性も考えられる。弘治三年(一五五七)八月吉日の梁川八幡宮祭礼規式写(関根文書)に「所沢十弐丁八幡御免ニ而 御子計出申候」とある。元弘三年(一三三三)八月日の伊達貞綱安堵申状(南禅寺文書)によれば、伊達貞綱は同年三月からの合戦の恩賞として小塚郷内の田在家などの安堵を申請し、九月八日陸奥守北畠顕家より認められている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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