久米郷
くめごう
現在の多良木町久米を中心に湯前町・岡原村・上村の球磨川左岸一帯を占め、黒原山(一〇一七・一メートル)北部の山岳地帯と、北は球磨川までの複合扇状地域を中心とする、古代の郷名を継承する中世荘園。史料上には当郷内として東方(上・下)・西方(上村・下村)・多良木村・奥野村・木原などの地名がみえ、ほぼ上球磨の球磨川左岸とみてよいと思われる。
「和名抄」に久米郷とみえるが、その後鎌倉中期まで史料にみえない。建久八年(一一九七)閏六月日の図田帳の一部と考えられる肥後国球磨郡田数領主等目録写(相良家文書)に、
<資料は省略されています>
とあるもののうち、少なくとも豊富(名)と多良木村は当郷であったとみられる。多良木村は没官され、伊勢弥次良が地頭に補任され、豊富名にはこの地方の伝統的開発領主久米氏が地頭として安堵されていた。
久米郷
くめごう
「和名抄」高山寺本に「久米」と記し、訓はない。刊本(慶安元年)に「クメ」と訓じる。同名の郷は大和・伊勢・遠江・常陸・伯耆・美作・伊予・筑前・肥後などの諸国にもみられ、いずれも久米部の居住地と考えられる。延喜八年(九〇八)の周防国玖珂郡玖珂郷戸籍(石山寺所蔵文書)に久米直阿古人丸・同安丸・同道男・同糸売・久米子丸など同姓五人の名がみえることから、久米部はかなり広範囲に分布していたことがうかがえる。
現徳山市の大字久米を遺名とする考えから、ここを郷域の中心とすることに異説はないが、郷の範囲については諸書の見解が異なる。「日本地理志料」は久米のほか平田・末武上・末武中・末武下(現下松市)、遠石・栗屋・大島(現徳山市)の諸邑を、「大日本地名辞書」は久米・徳山の両村を比定、「防長地名淵鑑」は東北部を除く花岡村・末武南村(現下松市末武下・中・上、生野屋・平田・笠戸島)、久米村・徳山町・大華村(現徳山市久米・譲羽・櫛ヶ浜・栗屋・大島・粭島と徳山市街)をそれぞれ想定しているが、現在のところ、「防長地名淵鑑」のいう、徳山市の久米・徳山・櫛ヶ浜から現下松市の末武南地区および東北部を除く花岡地区にわたる一帯を郷域に比定する見解が定説である。
久米郷
くめごう
「和名抄」諸本に訓はない。郷域は吉井川の支流久米川下流域の段丘面一帯、現久米郡久米町宮尾・領家付近と考えられる。宮尾に久米郡衙跡に比定される宮尾遺跡がある。七世紀末から八世紀にかけての時期の溝や塀で区画された内部に、二間×一〇間の東西棟を中心として、前方左右に二間×一二間の脇殿風の南北棟を配する郡衙中枢部の状況が確認されている。同遺跡に西接して久米廃寺がある。伽藍中心部に塔を置き、その東西に金堂と講堂を配し、それらを回廊で取囲む伽藍配置が確認されている。
久米郷
くめごう
「和名抄」諸本とも訓を欠く。郡名を冠した郷で、久米部(来目部)とよばれた人々が居住した地と考えられる。久米部は四―六世紀の初めにかけて大和朝廷の親衛軍として働いた人々で、とくに射術に長じていたといわれる。また伯耆・美作・伊予に久米郡があることから久米部の中心を西国に置く説もある。郷の比定地については、現関金町のうちの旧矢送・南谷村地区とするもの(日本地理志料・大日本地名辞書)、現倉吉市福守町・生田・秋喜一帯とする説がある(鳥取県史)。
久米郷
くめごう
「和名抄」東急本は「久女」の訓を付す。年月日欠の仕丁送文(正倉院丹裏古文書)には「久米部家主」として「年廿九、伊勢国桑名郡
原郷戸主久米部馬戸口」、「久米部馬」として「年廿八、伊勢国桑名郡野代郷戸主□米部吉嶋戸口」とあり、久米部の居住に由来する郷名か。
久米郷
くめごう
「和名抄」東急本は球玖郷の次に置く。東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「玖免」と訓を付す。現球磨郡多良木町久米が遺称地とされ、同郡湯前・多良木・岡原の三ヵ町村にわたる上球磨の黒原山の裾野一帯にあてられる。
久米郷
くめごう
「和名抄」諸本にみえる郷名。訓は不明だが、クメであろう。磐田市御殿・二之宮遺跡出土木簡にも「久米郷」とみえる。
久米郷
くめごう
「和名抄」高山寺本に「久米」、東急本・刊本に「父来」と記され、ともに訓を欠く。久寿三年(一一五六)頃と思われる鹿島神宮神領目録(賜蘆文庫文書所収の鹿島文書)に「久米 一石」とみえる。
久米郷
くめごう
「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。「大和志」は「方廃村存」として現橿原市久米町に比定。「日本書紀」神武天皇二年二月二日条に「大来目をして畝傍山の西の川辺の地に居らしめたまふ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 