日本歴史地名大系 「手村」の解説 手村てたるむら 宮城県:宮城郡松島町手村[現在地名]松島町手樽手樽湾を界して磯崎(いそざき)村の東にあり、南は松島湾に面して手樽半島が延びる。松島丘陵の末端、富山(とみやま)・萩(はぎ)ヶ森(もり)の両丘陵が南下して半島と入江の複雑な海岸地形を形造っている。手樽半島の西部は、磯崎の殿(との)崎(館ヶ崎)と銭神(ぜにがみ)崎との間に手樽湾が深く湾入し(第二次世界大戦後その全域が干拓された)、その奥に元手樽(もとてたる)の集落が開け、東部は半島の南端名籠(なごめ)の天王(てんのう)崎とその対岸七十里(しつちゆうり)浜の呼子(よびこ)崎との間に深く湾入した入江に、古浦(ふるうら)・早川(はやかわ)の両集落が開けている。三浦(みうら)集落は、現在では早川集落の奥に位置して海辺から離れているが、後述する早川堤防築造以前は、集落の両側に延びている山並の突端は岬となって、入江はその奥に深く入りこんでいたものと推測される。 手村なだてむら 大分県:杵築市手村[現在地名]杵築市守江(もりえ)守江湾の北西部に位置し、海岸に接する台地上の農業を主とする集落と、海浜の半農半漁の集落よりなる。東は守江村、西は大内山(おちやま)村。天正四年(一五七六)の王子八幡文書に「灘手村高橋六郎左衛門」とみえる。小倉藩元和人畜改帳では二筆に分けて記され、長岡式部知行分は高二〇四石余、家数二三・人数五〇(うち本百姓九・名子三)、牛一一、御蔵納分は高八九石余、家数三八・人数七八(うち本百姓六・名子二)、牛七。正保郷帳では安岐(あき)郷に属し、田方七一石余・畑方一三一石余。元禄郷帳では高二〇三石余。村内山中(やまなか)は江戸時代末期の新開集落である。台地のため川がなく、小溜池で灌漑用水を確保している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by