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抗日運動 こうにちうんどう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

抗日運動
こうにちうんどう

第2次世界大戦以前の中国に対する日本の経済,政治,軍事的進出に反対する中国人民の抵抗運動。日本商品ボイコット運動から始り,全面的な日本の在華特権,不平等条約の廃棄を求める反帝国主義運動を経て,最後には日本と中国との全面的な戦争に発展した。 1908年に起った第二辰丸事件は日本商品のボイコット運動であるが,抗日運動と呼ばれるのは,その後,15年の日本の対華二十一ヵ条要求に反対する運動が学生を先頭に行われ,全国の大都市に波及してからである。 19年5月の五・四運動は日中共同防敵軍事協定に端を発し,中国のナショナリズム,新民主主義革命運動の出発点となった。 23年の旅順・大連回収運動では日本商品をボイコットするだけでなく,日本人が中国において営むすべての事業について日本人との関係を断つ経済絶交運動に発展した。 25年の上海の日本人経営紡績工場での労働争議に端を発した五・三〇事件は,労働者階級を中心に中国の各階級を含み,日本のみならず,すべての帝国主義の中国支配に反対する全国的な反帝国主義運動に発展し,国民大革命の出発点となった。 27,28年3度の日本軍の山東出兵に反対する運動では,対日経済絶交,日中不平等条約の廃棄,旅順,大連の回収が要求された。 31年の満州事変以後,東北から華北一帯への日本の侵略は中国民族を存亡の危機に立たせた。当時中国は深刻な国共内戦のさなかにあったが,日本の帝国主義的侵略に対しては,日貨排斥などでは不十分とする中国共産党の指導のもとで,大衆の抗日運動の組織化 (抗日救国会 ) が行われていった。そして 37年7月7日の盧溝橋事件以後,日本の全面的な対中国軍事侵略の開始によって日中戦争が始ると,抗日を目的とする抗日民族統一戦線,いわゆる第2次国共合作が結成され,中国は民族の総力を結集して抗日戦争を展開するにいたった。

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デジタル大辞泉の解説

こうにち‐うんどう〔カウニチ‐〕【抗日運動】

日本の帝国主義的侵略に対する中国人民の抵抗運動。日露戦争後の日本の進出拡大に対する排日運動が、満州事変を機に抗日運動に転化し、1937年には抗日民族統一戦線が結成された。

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大辞林 第三版の解説

こうにちうんどう【抗日運動】

日本の侵略に対する中国国民の抵抗運動。1915年の二十一箇条要求後本格化、五・四運動や山東出兵などの際に高まりを見せた。満州事変後は武力闘争に発展し、36年の西安事件を契機に抗日民族統一戦線が結成された。排日運動。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

抗日運動
こうにちうんどう

日本の侵略に対する中国人の抵抗運動。日本資本主義の発展は中国への進出に支えられていた。とくに日露戦争以後は中国の東北地方に帝国主義権益を拡大し、さらには、1915年の対華二十一か条要求にみられるように、山東(さんとう/シャントン)省をはじめ南方にも触手を伸ばした。これに対し、中国民衆は日貨ボイコットを含む排日運動を広範に繰り広げていた。31年、「満州事変」によって日本が大々的に武力侵略を開始したのを契機に、それまでの排日運動は抗日運動という形に転化した。だが国民党政府は日本の「満州」侵略に対して「不抵抗」の方針をとり、国際連盟に提訴する方法にのみ頼ったので、まず上海(シャンハイ)に、学生、労働者による抗日運動が起こり、抗日救国連合会が組織された。日本の軍部はこれらの動きに対して、翌年、上海事変を起こし、蔡廷(さいていかい/ツァイティンカイ)に率いられた十九路軍は5か月にわたって抗戦したが、国民党政府からは援助を受けられなかった。上海事変終息ののち、33年、日本はさらに熱河(ねっか)省(現在は内モンゴル自治区、河北(かほく/ホーペイ)、遼寧(りょうねい/リヤオニン)省に分割されている)をも「満州国」の領土だと主張して熱河作戦を行い、引き続き長城線を越えて華北に進撃した。これに対しても国民党政府は妥協的態度をとり、日本と塘沽(タンクー)停戦協定を結んで、事実上「満州国」を黙認した。[安藤彦太郎]

運動の広がり

このような状況のもとで、抗日運動はさまざまな弾圧を受けながら、学生、知識人から一般民衆のなかに深く浸透していった。日本には妥協を重ねる一方で、江西(こうせい/チヤンシー)省に本拠を置く中国共産党軍に対して行った国民党軍の包囲討伐は、当然、世論の反発を引き起こした。一方、王明(おうめい)(本名は陳紹禹(ちんしょうう/チェンシャオユー))の左翼路線を克服して、江西省から長征を行って陝西(せんせい/シャンシー)省北部に到着した中国共産党は、内戦の即時停止と統一抗戦とを繰り返し訴え、民衆の抗日運動に大きな励ましを与えた。このころ日本は、「華北特殊化」工作を行って、河北省にその傀儡(かいらい)である殷汝耕(いんじょこう)の政府をつくり、ついで国民党の妥協の産物である宋哲元(そうてつげん/ソンチェーユアン)の冀察(きさつ)政務委員会が北京(ペキン)に成立した。北京の学生たちは、これに対し1935年12月、反対を叫んでデモに立ち上がった。いわゆる一二・九運動で、このあと学生たちは農村に救亡宣伝隊として出向いて、運動は全国に広がり、各地に抗日救国会ができ、36年6月には全国各界救国会連合会が結成された。しかし国民党政府は、抗日運動を取り締まる「敦睦(とんぼく)隣邦令」などを公布し、また、陝西省北部の中国共産党根拠地に対しては包囲攻撃を続けた。この攻撃に使われた国民党軍の将兵は、張学良(ちょうがくりょう/チャンシュエリヤン)の旧東北軍であったから、日本の東北侵略に抵抗しない国民党政府への批判を強くもっていた。そこで蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)は督戦のために東北軍司令部のある西安に乗り込んだが、兵士によって逮捕され、内戦停止と抗日の要求を突きつけられた(西安事件)。[安藤彦太郎]

民族統一戦線の実現

西安事件を機に、国民党政府も世論に屈服し、1937年3月には、ともかく内戦の停止と全面抗戦の承認を余儀なくされた。中国共産党は37年5月、毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)の「中国共産党の抗日時期における任務」を発表し、抗日民族統一戦線の理論的基礎を明らかにすることによって、抗日運動のいっそうの前進を図り、こうした動きに励まされて、さらに広範な知識人、実業家などが国民党政府への抗議に立ち上がるようになった。沈鈞儒(ちんきんじゅ/シェンチュンルー)、李公樸(りこうぼく)、史良(しりょう/シーリヤン)ら7人の有名人の運動はとくに耳目をひいたが、国民党政府は彼らを逮捕した。この「七君子事件」に対し、国民党への民衆の憤激はいっそう高まり、統一戦線の結成を望む声が強くなった。国民党支配地区での運動は、このように学生、労働者のデモや抗議のほかに、文化界においても活発に行われた。36年、上海の『読書雑誌』という合法的論壇を利用して陳伯達(ちんはくたつ/チェンポーター)らが提唱した「新啓蒙(けいもう)運動」は、哲学界を中心とする抗日救国の思想運動として知識層に一定の影響を与えた。また、文学界における国防文学論戦も注目すべきものであった。周揚(しゅうよう/チョウヤン)らは「一致救国」と「国防」の主題を掲げて中国文芸家協会を結成し、「民族革命の大衆文学」を掲げて左翼作家連盟に拠(よ)る魯迅(ろじん/ルーシュン)たちと対立した。この論争は同じ作家で双方の宣言に署名しているものもあり、複雑であるが、延安にあった毛沢東は当時すでに魯迅の側を支持していたといわれ、この点に関連してのちに文化大革命の際、周揚らが批判の対象とされた。
 このように、内部には諸矛盾を含みながらも、抗日運動は「救亡」運動として広範な広がりをみせ、1937年7月、日本の中国への全面的侵略が開始されるや、第二次国共合作を成立させ、抗日民族統一戦線を実現させる力となった。これ以後、日中戦争において、問題をはらみつつも統一戦線は維持され、抗戦を勝利に導いた。[安藤彦太郎]

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