改訂新版 世界大百科事典 「抗日民族統一戦線」の意味・わかりやすい解説
抗日民族統一戦線 (こうにちみんぞくとういつせんせん)
Kàng rì mín zú tǒng yī zhàn xiàn
抗日戦争遂行のため,中国共産党が執行した政治路線および戦術をいう。労働者,農民を主体とし,すべての抗日勢力を結集しようとするものであったが,中国国民党との和解・連合を具体的形態としたため第2次国共合作とも呼ばれる。〈満州事変〉(九・一八事変)以来,中共は倒蔣抗日の民族武装自衛運動を提唱したが,民族ブルジョアなど中間勢力を敵視する“下からの”統一戦線論のセクト性のため,運動を発展させられなかった。
1935年,日本の華北侵略が露骨化し,中国国民の危機意識が高まるなかで,中共は八・一宣言を発し国共内戦の停止と一致抗日を呼びかけて広範な支持を得た。一二・九運動,西安事件によって蔣介石も討共優先の政策の転換をよぎなくされ,国共再合作が実現した。このなかで中共党内には蔣介石集団の抗日の積極性を高く評価し,中共指導下の軍隊も国民党の統一指導にゆだねるべきだとする陳紹禹(王明)ら--その背景にはコミンテルンがあった--の有力な主張があった。これに対し毛沢東らは,蔣介石ら英米派の大地主・大ブルジョア集団は抗日陣営のなかの右翼頑迷派であり,抗日の主力とはなりえない,抗日は中国の民族革命=反帝反封建革命の一環であり,労働者,農民に依拠し,民族ブルジョアなど中間階級をまきこみ,大衆的な武装抵抗の運動となってはじめて勝利できる,統一戦線の拡大強化のためには〈独立自主〉の原則をつらぬき,軍と抗日根拠地に対する中共の指導権を断固として保持すべきである,国民党に対しては〈連合〉して抗日戦争を進めるとともに,人民大衆の動員をはばむ反人民的側面とは〈闘争〉せねばならず,またそうしてこそ統一=合作は守りうる,との立場をとった。実践の結果と戦局の展開が後者の正しさを証明するなかで,38年10月,中共中央委総会は毛沢東路線を確認し,統一戦線の指導は統一された。中共は抗日の実践において国民党に拘束されず,日本軍の後方で遊撃戦を展開し,抗日根拠地を拡大した。かつ根拠地では各級政府機関で中共党員は3分の1を超えてはならぬとする原則(三・三制)のもとに,広範な愛国人士を結集した統一戦線の政権を確立していった。蔣介石集団の反共攻撃にたいしては,抗日世論を背景にそのつど効果的に反撃し,日本軍の降伏にいたるまでは国共両党の合作を維持することができた。9年の抗日戦争を通じて人民勢力は飛躍的に強化され,中国革命勝利の基礎が固められたのである。
→抗日戦争
執筆者:小野 信爾
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報