日中間の戦争で、第一次、第二次にわたる。
[岡部牧夫]
満州事変の際に起こった日中間の局地戦争。世界の耳目を「満州国」の設立工作からそらし、中国の抗日運動を抑えるための謀略工作から発した。参謀本部付少佐田中隆吉(りゅうきち)らは、関東軍参謀大佐板垣征四郎(せいしろう)らの依頼で中国人を買収し、1932年(昭和7)1月、日本人僧侶(そうりょ)を襲撃・死傷させ、抗日運動の中心地上海に険悪な情勢をつくりだした。この事件は、中国側当局が日本の抗議要求をのんで落着したが、日本海軍は日本租界に陸戦隊を配備し、28日中国軍と衝突した。中国側の第十九路軍は抗日意識の高い精兵で、上海市街や北西郊外の水陸の地物を巧みに利用して陸戦隊を苦しめた。2月、日本政府は陸軍3個師団余を動員、激戦を展開した。上海は各国の権益が交錯するため、英・米・仏3国の休戦勧告など国際的圧力もあり、国際連盟の介入を恐れた日本は、連盟総会直前の3月1日ようやく大場鎮(だいじょうちん)の堅陣を落とし、3日第十九路軍の退却で戦闘を中止した。5月に停戦協定が結ばれ、日本軍は撤退した。この間3月に「満州国」が発足し、謀略の意図はいちおう成功したが、中国の抗日意識や列強の対日警戒心を一挙に増大させる結果を招いた。廟行鎮(びょうこうちん)攻撃の際、破壊筒を持って突入した兵士が爆弾三勇士として国民的英雄とされ、また停戦交渉中の4月、朝鮮人独立運動家尹奉吉(いんほうきつ)の投弾で上海派遣軍司令官大将白川義則(しらかわよしのり)、中国公使重光葵(しげみつまもる)らが負傷(のち白川は死亡)するなど、内外に大きな波紋を与えた。
[岡部牧夫]
盧溝橋(ろこうきょう)事件に次いで、日中戦争の導火線となった戦闘。華北での戦闘が中国軍の抵抗で膠着(こうちゃく)していた1937年(昭和12)8月、日本海軍の陸戦隊中尉大山勇夫(いさお)らが射殺された事件を口実に、海軍は上海の中国軍を攻撃した。日本軍はふたたび苦戦に陥ったが、同月陸軍2個師団を派遣、全面的な戦争を展開した。以後、中国国民政府も対日抗戦に傾き、8年の長期に及ぶ日中戦争に発展してゆく。
[岡部牧夫]
『秦郁彦著『日中戦争史』(1972・河出書房新社)』▽『歴史学研究会編『太平洋戦争史1』(1971・青木書店)』▽『江口圭一著『昭和の歴史4 十五年戦争の開幕』(1982・小学館)』
(1)第1次 満州事変に関連して上海でおこった日中間の局地戦争。柳条湖事件直後から上海でははげしい抗日運動が展開されたが,上海公使館付陸軍武官補佐官田中隆吉少佐らは,これを抑圧するとともに,〈満州国〉樹立工作から列国の目をそらすための謀略として,1932年1月18日買収した中国人に日本人托鉢僧を襲撃・殺傷させ,日中間の対立を一挙に激化させた。村井倉松上海総領事は呉鉄城上海市長に対し事件について陳謝,加害者処罰,抗日団体解散などを要求し,第1遣外艦隊の武力を背景として,27日最後通牒を発した。28日中国側は日本の要求を承認したが,陸軍に対抗して戦功をあげようとはやる海軍は,日本が一方的に警備区域に編入した租界外の閘北(ざほく)へ陸戦隊を出動させ,蔡廷鍇(さいていかい)指揮下の第19路軍と衝突,激烈な市街戦となった。海軍は第3艦隊(司令長官野村吉三郎中将)の兵力を増強したが,苦戦に陥り,陸軍派兵を要請し,犬養毅内閣は2月2日第9師団,混成第24旅団の派遣を決定した。18日植田謙吉第9師団長は中国軍に租界から20km以遠への撤退を要求し,20日総攻撃を開始したが,空閑(くが)昇大隊長が捕虜となり,〈肉弾三勇士〉の犠牲を払うなど,中国軍の強力な抵抗に直面し,人員・弾薬の不足をきたした。軍中央は24日第11・第14師団などからなる上海派遣軍(軍司令官白川義則大将)を編制し,3月1日第11師団が中国軍の背後に上陸,第9師団も総攻撃をかけ,ようやく中国軍を退却させ,3日一方的に戦闘中止を声明した。中国は事件を国際連盟に提訴,上海に大きな権益をもつイギリス,アメリカ,フランスも積極的に干渉し,3月24日上海で停戦会談が開始された。4月29日上海の天長節祝賀式場に朝鮮人尹奉吉(いんほうきつ)が投弾し,日本首脳が負傷(白川軍司令官はのち死亡)する事件が突発したが,5月5日停戦協定が成立,日本軍は戦死769名,負傷2322名の犠牲を払って撤兵した。
(2)第2次 日中戦争初期の上海方面の戦争。蘆溝橋事件を発端とする日本の華北侵攻に対して,上海では抗日運動が激化したが,海軍はこれに積極的に対処する方針をとり,1937年8月9日海軍特別陸戦隊の大山勇夫中尉と水兵1名が虹橋飛行場偵察で中国保安隊に殺害される事件が発生すると,兵力を増強した。これに対して中国側も増兵して緊張はいちだんと高まり,12日海軍軍令部は陸軍派兵を要請,近衛文麿内閣は13日内地2個師団派兵を決定した。同日夜日中両軍は衝突,はげしい市街戦となり,14日中国空軍の日本艦隊爆撃,日本海軍の台湾基地からの杭州などへの空爆,15日長崎県大村基地からの南京への〈渡洋爆撃〉,第3・第11師団を基幹とする上海派遣軍(軍司令官松井石根大将)の編制へと戦局は拡大し,23日上海北方への日本軍上陸により戦争は完全に全面化した。9月2日〈北支事変〉は〈支那事変〉へと改称され,上海事変はその一部となった。
→日中戦争
執筆者:江口 圭一
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1第1次。満州事変勃発後の中国で日本人僧侶の傷害事件をきっかけに日本海軍陸戦隊と中国第19路軍が衝突した事件。1932年(昭和7)1月18日,排日運動の根拠地上海で僧侶が襲撃された。襲撃は関東軍が満州事変から列国の目をそらすためにしくんだといわれる。日本側は上海市長に抗日団体の解散を要求,中国側は全要求を承認したが両軍間に戦闘が始まり,日本側の予想に反し中国軍は強力で,日本軍は辛勝。イギリスの仲介で5月5日に停戦協定に調印。
2第2次。日中戦争初期の上海での戦闘。1937年(昭和12)8月9日,海軍陸戦隊大山勇夫中尉の射殺事件をきっかけに,日本が2個師団を出兵して激戦を展開した。政府は北支方面に限定されていた戦線を中支まで拡大することを決定し,日中戦争が全面化した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
上海で起こった日中間の武力衝突事件。
①〔1932〕満洲事変のあとの排日運動の高まりのなかで,1932年1月18日上海で起こった日本人僧が殴打された事件。日本側は犯人の厳罰,抗日団体の解散などを要求,28日,日本軍は中国の十九路軍と衝突した。十九路軍は頑強に戦ったが政府の支援が得られず1カ月余で敗退。5月5日停戦協定が調印された。
②〔1937〕1937年8月9日,日本人軍人が上海虹橋(こうきょう)飛行場で射殺された事件。日本軍は善後処置の要求を提出したが,その回答日に至らない13日,日中間に衝突が起こった。これにより日中戦争は華中に拡大し,中国軍は11月まで上海で抗戦した。
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