中国で1936年12月12日,西安において発生した張学良による蔣介石監禁事件。日本の華北方面への侵略が激化していたにもかかわらず,蔣介石の国民党政権は,民族的な抗日の声に耳をとざして,共産党の掃討を優先し,そのうえで外敵と戦うという政策に固執していた。一方,日本によって中国東北部(満州)の故郷をうばわれた張学良麾下(きか)の旧東北軍は,陝西省西部で共産党の掃討に従っていたが,共産党や愛国学生の影響を受けて抗日救国の思想にめざめ,共産党との戦闘に消極的になっていった。そこで蔣介石は空路,西安の張学良司令部を督戦に訪れ,かえって愛国的な青年将校たちの影響を受けた張学良,西北軍の楊虎城らによって監禁され,内戦を中止して抗日に立ち上がるよう要求される結果となった。蔣介石の生死をめぐって世界の耳目は西安に注がれた。このとき周恩来は共産党を代表して西安に急行し,挙国抗日へ政策転換を行うという了解のもとに,蔣介石を釈放するよう調停した。この結果,翌37年7月,蘆溝橋事件によって日本と中国の戦争が拡大すると国民党は内戦を停止し,抗日民族統一戦線(第2次国共合作)が成立する。世界史的にみるならば,西安事件を契機とする蔣介石の政策転換は,きたるべき第2次大戦において中国を米英ソの反ファシズム陣営の側に組み入れることを決定づけるものであった。しかし事件の立役者であった張学良は,釈放された蔣介石に自発的に同行して南京へ赴き,その後の生涯を軟禁状態で送る結果となる。
事件直後に西安に入ったニュージーランドの記者ジョージ・バートラムに《西安事件》(1937),蔣介石・宋美齢夫妻に《西安半月記--蔣夫人西安事変回憶録》(1937)などがあるが,事件の真相には異説が多く,蔣介石の逮捕は事前に計画されていたのか,偶発的なのか,中国共産党は最初,蔣介石を殺す方針で,コミンテルンの指示によって政策転換したのではないか等々の疑問が出されている。この問題については,スペイン内戦の経験から国際的に反ファシズム統一戦線が形成されつつあった情勢と,中国における民族意識の高揚を念頭においた,いっそうの検討が必要であろう。当時の日本でも,種々の観測がおこなわれたが,内戦が激化するだろうという希望的観測と民族意識の過小評価が正確な展望をもつことを妨げ,結局,侵略の拡大,全面戦争への道をたどる結果となった。
執筆者:春名 徹
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1936年12月、中国の西安(せいあん/シーアン)で蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)が監禁された事件。36年、旧東北軍の張学良(ちょうがくりょう/チャンシュエリヤン)は東北軍総司令として、西北軍総司令の楊虎城(ようこじょう/ヤンフーチャン)とともに陝西(せんせい/シャンシー)省北部の中共軍を包囲していた。張は剿匪(そうひ)総司令部(匪は中共をさす)の副司令でもあったが、彼の部下の兵士たちは、中共の内戦停止、一致抗日の呼びかけを支持していた。「先安内後攘(じょう)外」(国内平定が先決、外敵は後回し)という政策をとり、抗日運動を抑圧していた蒋は、自ら対共作戦督促のため、張軍の布陣する西安に飛んで華清池(かせいち/ホアチンチ)に滞在した。ちょうど一二・九運動1周年に向けて西安の青年たちはデモを行い、張らを牽制(けんせい)した。張、楊は民衆の要求を背景に12月12日、蒋を逮捕し、内戦停止、抗日、政治犯釈放などを要求した。中共は南京(ナンキン)では親日派の何応欽(かおうきん/ホーインチン)が覇権をねらっていること、南京の親英米派は一定の条件のもとに抗日に参加しうることなどの状況判断にたって平和解決に乗り出し、25日、蒋介石は釈放されて南京に戻り、内戦は停止された。この事件は抗日民族統一戦線結成の契機となり、中国近代史における重要な転換点となった。
[安藤彦太郎]
1936年12月,西安で蒋介石(しょうかいせき)が監禁された事件。日本の侵略に対し国民政府は不抵抗主義を取り続けたが,張学良の東北軍,楊虎城(ようこじょう)の西北軍は対共作戦の過程でしだいに内戦停止,一致抗日の共産党のスローガンを受け入れるようになった。彼らは対共作戦督促のため西安に飛来した蒋介石その他の要人を36年12月12日監禁し,国民政府の改組,内戦停止,政治犯の釈放など8項目の救国要求を提出した。共産党は平和解決による全国的抗日民族統一戦線の結成を説得して成功,25日蒋は釈放され,南京へ帰った。この事件を契機に第2次国共合作が進んだ。
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1936年12月12日,張学良(ちょうがくりょう)の東北軍と楊虎城(ようこじょう)の西北軍が蒋介石(しょうかいせき)を逮捕・監禁して,内戦停止と一致抗日を要求した事件。33年以降の華北分離工作は中国の反日運動を高揚させ,35年中国共産党は8・1宣言を採択,一致抗日をよびかけた。これに対し蒋介石は「安内攘外」の方針を堅持し,共産軍討伐戦を継続。先頭に立たされた東北軍は共産党の影響をうけ,対日抗戦の機運が高まった。これに同調した張学良・楊虎城は,共産軍討伐を監督するため西安に飛来した蒋介石を逮捕し,内戦停止・一致抗日を含む8項目の要求を提示。共産党代表周恩来の調停で事件は平和的に解決され,第2次国共合作の機運をもたらした。
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…この結果,翌37年7月,蘆溝橋事件によって日本と中国の戦争が拡大すると国民党は内戦を停止し,抗日民族統一戦線(第2次国共合作)が成立する。世界史的にみるならば,西安事件を契機とする蔣介石の政策転換は,きたるべき第2次大戦において中国を米英ソの反ファシズム陣営の側に組み入れることを決定づけるものであった。しかし事件の立役者であった張学良は,釈放された蔣介石に自発的に同行して南京へ赴き,その後の生涯を軟禁状態で送る結果となる。…
…それを基礎に30年11月の3期4中全会で〈勦匪(そうひ)案〉すなわち共産党指導下のソビエト区包囲攻撃を決議,本格的な解放区攻撃を開始した。翌31年9月,〈九・一八事変〉で日本の東北侵略が開始された直後の11月の4全大会は,対外宣言を発して国際連盟に呼びかけ,〈国難会議組織案〉等を採択するが,翌32年6月,蔣介石は勦匪会議の席上,〈外敵を攘(はら)うにはまず国内を安定させねばならない(攘外必先安内)〉という政策を発表,国民党中央は西安事件に至るまでこの政策を変更しなかった。 33年,国民党員李済深,陳銘枢らと十九路軍の反蔣抗日の福建人民革命政府を武力で弾圧,34年,瑞金の共産党指導下の中央ソビエト政府を〈長征〉に追い込むと,蔣介石を中心とする国民党は国内建設に力を入れ,儒教精神にもとづく新生活運動を提唱,幣制改革を含む各種経済建設運動を行った。…
…36年夏,張学良は周恩来と会見し,紅軍と抗日の秘密協定を結ぶに至る。同年12月,張学良は督戦にあらわれた蔣介石を西安に監禁し内戦の停止と一致抗日を迫った(西安事件)。これを機に国共合作が実現するが,張学良は蔣介石から官職を剝奪され,10年の禁錮刑を宣告された。…
※「西安事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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