排日運動(読み)はいにちうんどう

改訂新版 世界大百科事典 「排日運動」の意味・わかりやすい解説

排日運動 (はいにちうんどう)

排日運動は二つの系統に大別される。一つは日本人移民に対する差別,排斥で,他は日本の侵略的行動に対する対抗措置(日貨排斥日貨ボイコット)である。かつてのアメリカ,カナダブラジル等における日本人移民の差別待遇,入国制限ないし禁止は前者であり,中国や東南アジアにおける日本商品ボイコット日貨抵制)運動は後者に属する。

アメリカにおける日本人移民排斥は,太平洋岸に4000人程度の日本人が移住しているにすぎない1890年代にすでに始まっていた。日本人移民の増加(1908年には10万3000人)につれ,とくに日本人移民が集中したカリフォルニア州で,低賃金,悪習(不潔,賭博,売淫),非同化などを理由とする排日運動が広範に展開されるようになった。1906年サンフランシスコ市は,日本人の学童を1ヵ所に集中隔離する差別措置をとった。日本からの強い抗議のもとで,T.ローズベルト大統領は,サンフランシスコ市に隔離撤回を勧告したが入れられず,結局,翌07年メキシコ,ハワイ,カナダへの渡航旅券を持つ日本人のアメリカ本土入国を認めない措置をとることでようやく問題の解決をみた。しかしその結果,ハワイの日本人移民は集中的にカナダに渡航し,07年9月7日バンクーバーで大規模な日本人,中国人に対する襲撃事件が発生するにいたった。カナダ政府はルミュー労相を11月日本に派遣し,日本移民の渡航を制限するよう要求し,日本側も年間400人に制限することを承認した。またT.J.オブライエン駐日アメリカ大使は,11月林董(ただす)外相に日本人労働者の渡航制限を要求,翌08年2月にかけて両者間に書簡が交換され,いわゆる移民に関する日米紳士協約の成立をみた。この結果,日本側は一般の労働者に対しアメリカ本土行き旅券を発行しないことになり,排日はいちおう鎮静した。しかし,13年カリフォルニア州は事実上の排日土地法(外国人土地所有禁止法)を制定,日本人移民の土地所有禁止,借地制限を実施した。日本政府および世論は,この日本人への差別措置を強く非難・批判した。カリフォルニア州は20年11月,さらに厳しい内容の排日土地法を制定,この動きはワシントン州アリゾナ州などに波及した。24年クーリッジ・アメリカ大統領は新移民法(排日移民法)に署名して日本人移民は全面的に禁止され,排日運動はその目的を達成した。以後日本人移民はブラジルに集中,33年には2万500人(同年度ブラジルへの全移民の半数)に達したが,翌34年ブラジルは新憲法に事実上日本人移民の制限措置を規定した。41年太平洋戦争の勃発とともに,アメリカでは日系人11万2000人が集団抑留されたが,この措置も排日運動を底流として行われたものである。

中国における排日運動は,日本商品に対する不買・ボイコット運動として展開された。最初の日貨排斥は,1908年の第二辰丸事件における日本側の高圧的な対応に反発して起こった。以後,対日ボイコットは09年(安奉線改築),15年(二十一ヵ条要求),19年(青島還付),23年(旅順・大連回収),25,26年(五・三〇運動),27年(山東出兵),28年(済南事件),31,32年(満州事変上海事変)と総計9回に達した。辰丸事件によるボイコットは華南,安奉線改築によるボイコットは満州・華北を中心に行われた地域的な運動であったが,二十一ヵ条要求に対する日貨ボイコット運動以後は全国的な規模で展開され,中国を主要輸出市場とする日本経済に深刻な打撃を与えた。

 日貨ボイコットは,日本の露骨な帝国主義的要求,あるいは直接的な軍事行動に対する抗議として中国民衆の支持のもとに展開される。内戦による統一の困難や脆弱(ぜいじやく)な軍事力のため日本に対し有効な対抗手段をもたない中国にとって,日貨ボイコットは唯一の抵抗方式であった。内容も1920年代に入ると,単なる日本商品の不買から海運,金融関係,日資系工場のストライキなど多方面に発展し,対日経済絶交の色彩を帯びるにいたった。このボイコットは,日本商品の輸入を停止することによって国産品の愛用,民族資本勃興の機運をつくった。不平等条約によって関税自主権を喪失した中国にとって,日貨ボイコットは国内産業育成の手段となったのである。33年,中国は完全な自主関税を実施するにいたり,ボイコット運動も終結した。以後,排日運動は,反日救国,抗日統一などの名のもとにより,広範な国民運動として展開された。

 日本は排日ボイコット運動に直接有効な対応をとり得ず,中国政府にその取締りを要求したが,一方においてボイコットが中国政府の了解・指導のもとで対日政策の一手段として運用されているとの認識のもとで,たとえば袁世凱政権の交代,国民政府の打倒などを意図するにいたったのである。
対日ボイコット運動
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日本の中国大陸への侵略拡大は,孫文によって〈革命の母〉と呼ばれた華僑にとっても看過できないことであった。東南アジア地域の華僑が,日貨排斥に動いたのは1915年の対中二十一ヵ条要求が明らかになったときに始まる。さらに19年のパリ講和会議における山東半島還付要求,23年の旅順・大連回収要求などに際しても,南洋華僑は学生,インテリ層の指導のもとに,各層が日貨ボイコット運動に参加した。

 中国では,1924年国共合作が成立し,反帝・反封建の民族運動は新たな展開をとげた。こうした背景のもと,28年の済南事件のころより南洋華僑の排日運動は中国の政府・党の指導をうけるようになり,愛国・救国思想に裏づけられ,ますます熾烈(しれつ)化していった。31年,日本が満州事変を契機に中国への侵略を本格化するに及んで,東南アジア華僑による日貨排斥はより組織化され,その地域も華僑の最も多いイギリス領マレーのみならず,オランダ領東インド,フィリピン,シャム(タイ)など全域に拡大した。おりからの不景気のため足並みの乱れがあったとはいえ,これらの地域への日本商品輸出額は31年10月から翌年1月にかけてほぼ半減している。37年の蘆溝橋事件による中国への全面侵略に及んで,東南アジアの排日運動は抗日運動の性格を帯び,日貨排斥から中国への献金,さらには義勇軍の派遣にまで及んだ。そして41年12月,東南アジア全域へ侵略を拡大した日本軍は,各地で華僑の激しい抵抗運動に直面せざるをえなかった。

 戦後復興から高度成長期に入った日本経済のアジア進出は,しだいに反発を招くことになり,1972年秋にはタイ学生運動が日貨排斥を呼びかけ,日本側を驚かせた。それは74年1月,田中角栄首相が東南アジアを訪問したときの〈反日暴動〉の前兆でもあった。韓国では,1970年に在日韓国人を就職差別した日立製作所に抗議して,その製品の輸入阻止の動きがあらわれたが,会社側敗訴により解決したため,ことなきをえた。
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旺文社日本史事典 三訂版 「排日運動」の解説

排日運動
はいにちうんどう

①大正・昭和期,日本の大陸進出に反対する中国の民族運動
1915(大正4)年,日本の二十一カ条要求受諾を国辱とする中国国民の間におこり,'19年の五・四運動で爆発。大正期〜昭和初期はおもに日貨排斥(日本商品ボイコット)運動。五・三〇事件を経て,'31年の満州事変以来中国共産党が中心となり,'36年の西安事件後の国共合作成立により,抗日民族統一戦線にまとまる。
②移民問題についてのアメリカとの政治問題。

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旺文社世界史事典 三訂版 「排日運動」の解説

排日運動
はいにちうんどう

日本の帝国主義的侵略を排除しようとする中国民衆運動の総称
この動きは20世紀初頭から現れたが,1915年の二十一か条要求をめぐって組織化・本格化し,五・四運動で全国的規模の日貨排斥・排日デモンストレーションとして展開した。以後,五・三〇事件など問題が発生するごとにくり返され,満州事変以後は反帝国主義運動の中心となり,ついに日中戦争を迎えた。

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