精選版 日本国語大辞典 「中国国民党」の意味・読み・例文・類語
ちゅうごく‐こくみんとう ‥コクミンタウ【中国国民党】
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辛亥革命後の1919年、広州で革命諸派が連合して結成した革命政党。略称KMT(Kuomintang)。英語表記はChinese Nationalist Party。1921年革命派の有力指導者であった孫文(そんぶん/スンウェン)が大総統に就任し、共産党との協力(第一次国共合作)を決定した。1925年孫文が病死後、蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)が指導者となり、1928年全国を統一して独裁政党となった。しかし抗日戦後、共産党との内戦に敗れ、台湾に移動した。2000年の総選挙で民進党に敗れ野党となるが、2008年に与党に復活した。孫文が唱えた三民主義(民族・民権・民生)を党綱領としている。
[辻 康吾]
1911年の辛亥革命(しんがいかくめい)で最後の王朝清(しん)が倒れ、翌1912年中華民国が成立した。革命運動の有力指導者であった孫文が臨時大総統に就任したが、実力者であった袁世凱(えんせいがい/ユアンシーカイ)に敗れ、南下して広東で革命政権を樹立し、1921年大統領に就任した。1924年中国共産党と合作(第一次国共合作)し、ソ連の援助を得て軍事力を強化した。1925年の孫文の死去以後、蒋介石を指導者として北伐を開始し、その途上1927年に反共クーデターで共産党を弾圧、共産党は地方に逃れ、根拠地を建設し抵抗を続けた。国民党軍は全国統一を完成させ、南京(ナンキン)に首都を置き、独裁体制をとった。しかし共産党を含め、地方勢力との抗争が続く一方、日本の侵出が進み、1936年西安(せいあん/シーアン)事件が発生した。日本軍に東北(満州)を追われた張学良(ちょうがくりょう/チャンシュエリヤン)が蒋介石を軟禁し、内戦の中止と抗日統一戦線の結成を迫った。翌1937年の盧溝橋(ろこうきょう/ルーコウチアオ)事件の勃発(ぼっぱつ)で日中全面戦争が始まり、国民党は共産党とふたたび合作した(第二次国共合作)。日本軍に追われた国民党政権は重慶(じゅうけい/チョンチン)に撤退し、抗戦を続けた。1945年日本が敗北すると、国共両党は重慶で会談するが両党間の内戦が再発し、1949年までに国民党軍は共産党軍に敗れ、台湾に移動した。
[辻 康吾]
台湾に移動後も蒋介石は大陸反攻を掲げて中華人民共和国との対決を続け、独裁体制を強化した。しかし独裁体制や政権の腐敗によって大陸から移動してきた「外省人」と「本省人」(台湾省人)の対立が激化し、1947年2月28日大規模なデモが発生し、これを武力鎮圧する「二・二八事件」によって大量の犠牲者(3万人ともいわれる)が出た。1952年蒋介石は大規模な党改革を行い、独裁体制を維持しつつ経済発展を目ざした。台湾海峡ではその後も緊張が続いていたが、1958年人民解放軍の金門島作戦が失敗し、1961年には砲撃戦も中止となり、台湾海峡での攻防は膠着(こうちゃく)状態となった。1972年行政院長に就任した蒋経国(しょうけいこく/チヤンチンクオ)(蒋介石の長男)は、経済発展に力を入れ成功を収めたが、同時に1971年の国連代表権の喪失、1972年の米中接近、日中国交正常化など国際的に孤立化を深めた。1975年蒋介石が死去すると、蒋経国が党首となり、1978年には総統に就任した。
蒋経国は台湾の民主化を図り、また1984年には台湾出身の李登輝(りとうき/リートンホイ)を副総統に就任させるなど「台湾本省人」への依存を深めた。またアメリカの圧力もあり、1987年からは野党の結成を認め、新聞統制を解除し、台湾への移動後続けられていた戒厳令を解除、民間新聞の発行を許可するなど独裁体制の変革に努めた。1988年蒋経国が死去し、李登輝が台湾出身者として初めての総統となり、国民党主席に就任した。李登輝も台湾のいっそうの民主化を進め、1994年には総統の直接選挙制を敷いた。中国は、李登輝を台湾独立論者として1996年の総選挙を前に大規模な軍事演習やミサイル実験などでさまざまな圧力を加えたが、李登輝が中華民国初の民選総統に選出された。当選後の李登輝は独立色を強め、台湾の主権国家論などを示唆した。
[辻 康吾]
2000年の総統選挙では国民党の分裂もあり、民主進歩党(民進党)の陳水扁(ちんすいへん/チェンシュイピェン)が当選した。民進党は在野時代には台湾独立を掲げたが、与党となった以後は表現を改め、なお独立も模索した。ともあれこれで名実ともに大陸、台湾の独裁政党であった国民党は野党化し、台湾の民主化が完成した。しかし中国は陳水扁を台湾独立派として圧力を強め、大陸との関係は緊張が激化した。2004年の選挙でふたたび民進党が勝利したが、党内および陳水扁一族のスキャンダルが暴露され、2008年の総選挙で国民党に惨敗した。2005年に国民党主席に選出されていた馬英九(ばえいきゅう/マーインチウ)が総統に就任したが、国民党は独裁政党として復活することなく、政権与党として政権を運営している。中国共産党はかつての国共合作の前例もあり国民党を支持し馬政権の台湾との接触を深めている。馬英九も2008年から大陸との直行航空便の開設など「通商・通航・通郵」などのいわゆる「三通」政策を実現させ、大陸との実務関係の緊密化を図っている。だが同時に「統一、台湾の独立、武力行使」のいずれも行わないとするいわゆる「三不政策」をとり、またアメリカから武器を輸入するなど現状維持を続けている。
[辻 康吾]
『野村浩一著『蒋介石と毛沢東』(1997・岩波書店)』▽『孫文著、安藤彦太郎訳『三民主義』上下(岩波文庫)』
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(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2008年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
1919年孫文の指導下に中華革命党を改組,改称してできた政党。五・四運動以後国民党は新三民主義を提唱し,中国共産党,ソ連,コミンテルンに接近していった。24年国共合作が成立した。孫文が死去したのち,汪兆銘(おうちょうめい)らが党の指導にあたったが,やがて蒋介石(しょうかいせき)と共産党との対立が激化した。27年には武漢と南京に二つの対立する国民政府ができ,国共合作は崩壊した。党内で指導権を獲得した蒋介石は28年北伐を完成,軍閥支配を終わらせ,ひとまず全国を統一して国民政府を樹立した。31年満洲事変が勃発すると,国民党は日本に対して「一面抵抗,一面交渉」の態度で臨むとともに,「安内攘外」政策によって共産党を弾圧した。しかし,抗日の気運が高まるなかで36年西安事件が勃発,37年の盧溝橋(ろこうきょう)事件をとおして国民党は再度共産党と合作した。国民党は戦争初期において日本軍と戦いつつも,やがて共産党弾圧を強化した。日本と協力した汪兆銘の南京政府を斥けて45年抗日戦争に勝利したものの,以後国民党は共産党との内戦に敗れ,49年台湾へ撤退した。台湾で蒋介石は一党独裁を確立したが,80年代末より蒋経国(しょうけいこく),李登輝(りとうき)の時代に,国民党・台湾の政治が民主化されることになった。
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1919年に成立した中国の政党。前身は中国革命同盟会・国民党およびそれを改組した中華革命党。5・4運動後,孫文は中華革命党を中国国民党と改称。1923年以降コミンテルンの意見をうけいれ,24年1月,第1回全国代表大会で連ソ・容共・農工扶助の政策を確立した。27年の反共クーデタをへて第1回国共合作は崩壊。その後,蒋介石(しょうかいせき)は「攘外安内」の方針のもとで共産党弾圧を続行したが,西安事件以後は一致抗日の政策に転じ,第2次国共合作が実現した。共産党との対決に失敗したのち台湾に逃避,蒋介石の独裁支配を75年まで維持した。88年台湾出身の李登輝(りとうき)が総統に就任し,自由化政策に転じた。96年3月初の台湾総統直接選挙に李登輝が率いる国民党が圧勝し,新しい台湾の将来を模索し始めた。
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…中国国民党と中国共産党との〈合作〉(提携)をいう。前後2回実現して中国現代史の展開に決定的な意義をもった。…
※「中国国民党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
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