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中国国民党 ちゅうごくこくみんとうZhong-guo guo-min-dang

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中国国民党
ちゅうごくこくみんとう
Zhong-guo guo-min-dang

中国共産党と並ぶ近代中国の主要政党。五・四運動後の 1919年 10月に孫文三民主義を理論的基礎としてそれまで指導してきた興中会,中国同盟会,国民党を再建したもの。 24年1月の一全大会で「以党治国」の方針を打出し,27年南京に統一的国民政府を樹立した。以後蒋介石一派が実権を掌握し,31年9月の満州事変に始り日中戦争を経て太平洋戦争にいたる一連の抗日戦の間に,共産党の討伐,国共合作,財政近代化,通貨統一,新生活運動などを展開して政権の維持と蒋独裁制を確立した。第2次世界大戦後再び国共内戦が起り,党内の腐敗と反動化で大衆が離反し,軍事的にも共産党に敗れて台湾に移った。 63年第 10回全国大会で蒋介石を総裁に6選した。 78年4月蒋介石が死去,翌5月には長男の蒋経国が総統に就任。以後,党の若返りと本省人の登用を進めていった。 88年1月の蒋経国死亡後,李登輝が本省人として初めて主席に就任,90年には総統となった。李登輝は,民主化と「1国2政府」路線を打出し,96年からは総統の直接選挙制度を実施。 98年 12月の総選挙では過半数を上回る 123議席を獲得したが,2000年に実施された総統選挙で民主進歩党の陳水扁候補に敗れ,下野。 1971年国連から脱退を余儀なくされて国際的には孤立化したものの,経済力を背景に外交関係をもつ国は 98年現在 28ヵ国に及ぶ。

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知恵蔵の解説

中国国民党

中国革命が勝利し、中華人民共和国が1949年10月に成立したため、台湾に逃れた中華民国の指導政党。孫文の三民主義(民族の独立、民権の伸張、民生の安定)を綱領とし、孫文らが1894年に結成した興中会が起源。その後、中国革命同盟会(1905年)、国民党(12年)、中華革命党(14年)と変遷した後、19年に中国国民党として新発足した。24年の第1次国共合作、26年の北伐開始を経て、28年に中国全土を統治することとなり、36年に第2次国共合作を行って抗日戦争に勝利したが、戦後の国共内戦に敗れ、台湾島に逃れた。台湾では蒋介石独裁体制、蒋経国権威主義体制を経て、李登輝(リー・トンホイ)民主体制へと政治発展を遂げ、従来の中国国民党のイメージを一新した。88年1月に蒋経国総統が死去すると、台湾人(本省人)の李登輝副総統が昇格、同年7月の中国国民党第13回大会で李総統を国民党主席に選出した。国民党中央常務委員には若手改革派が多数登用され、しかも本省人と外省人(大陸からの移住者・子孫)の比率も逆転するなど、新生国民党への強い意欲がうかがわれた。同年8月の国民党第14回大会では4人の副主席が置かれることとなり、党規約から「大陸光復」の文字が削除され、4年ごとの党大会も2年ごとに開かれることとなった。民主化・台湾化を図る李総統の強い意向で、総統直接選挙制を96年から導入した。96年3月に実施された総統選挙では、中国当局が3次にわたるミサイル実射演習などの「文攻武嚇(ぶかく)」(文書による攻撃と武力による威嚇)の圧力を加えたにもかかわらず、李登輝総統・連戦(リエン・チャン)副総統が圧倒的多数で選ばれた。97年8月の国民党第15回大会でも、李総統は党員代表の93%の支持を獲得して、3期目をスタートさせた。同年9月、連戦行政院長は副総統専任となり、後任には蕭万長(シアオ・ワンチャン)が就任したが、同年末の地方選挙では野党の民主進歩党に敗北。98年末の台北市長選挙では、陳水扁(チェン・ショイピエン)市長を破って国民党の馬英九(マー・インチウ)市長が当選したものの、2000年3月の総統選挙では連戦候補を立てた国民党が敗北し、野党の民主進歩党の陳水扁総統・呂秀蓮(リュイ・シウリエン)副総統が勝利して国民党の歴史に1つの幕が下りた。同月、李登輝総統は国民党主席を辞し、同年5月には歴史的な政権交代が実現した。連戦主席となった国民党は、01年末の立法院選挙に先立ち、台湾団結連盟(台連)を結成した李登輝・前主席を除名した。05年4月には連戦主席が大陸を訪問、中国の胡錦涛(フー・チンタオ)共産党総書記と会談し、60年ぶりの「国共」トップ会談が実現した。05年6月、連戦の後任に馬英九台北市長が選ばれた。現在の主席は呉伯雄(ウ・ボシオン)・元総統府諮政、馬英九は総統候補として台湾の「現状維持」を唱えている。

(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2008年)

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デジタル大辞泉の解説

ちゅうごく‐こくみんとう〔‐コクミンタウ〕【中国国民党】

1919年、孫文指導者として結成された中国の政党。中国革命同盟会中華革命党前身。1928年、蒋介石の指導下に国民政府を南京に樹立したが、第二次大戦後中国共産党との内戦に敗れ、1949年、台湾に逃れた。以降、2000年まで台湾で政権を維持。現在も自党による台中再統一を目指すが、事実上、台湾の政党として活動。国民党。

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百科事典マイペディアの解説

中国国民党【ちゅうごくこくみんとう】

1912年―1913年の国民党と1919年以降現存の中国国民党がある。前者は民国成立後,中国同盟会改組宋教仁らを中心に再編したが,袁政権の弾圧を受け解散。後者は亡命した孫文が1914年組織した秘密結社中華革命党を1919年10月10日改称し大衆政党としたもの。
→関連項目汪兆銘抗日戦争CC団対華白書中華人民共和国中国共産党中国人民政治協商会議中国民主同盟陳毅陳誠南京国民政府二五減租馮玉祥藍衣社李済深李石曾李宗仁廖承志

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世界大百科事典 第2版の解説

ちゅうごくこくみんとう【中国国民党 Zhōng guó guó mín dǎng】

中国現代史上,共産党と並ぶ最大の政党。指導理念は三民主義青天白日旗を党旗とする。その前身は19世紀末にさかのぼるが,1919年10月,孫文を指導者として成立した。孫文の死後,蔣介石が党内反共右派に支持されてしだいに党の実権を握り,以後国民党は,75年台湾で蔣介石が死去するまで,その指導下にあった。この間,49年の中華人民共和国成立にいたる人民解放戦争によって国民党は大陸における存立基盤を失うが,党内の反蔣左派によって創立された中国国民党革命委員会(民革と略称)は,中華人民共和国の民主諸党派の一つとして今日も活動している。

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大辞林 第三版の解説

ちゅうごくこくみんとう【中国国民党】

1919年、孫文が中華革命党を改組改称して組織した中国の政党。三民主義を綱領とした。孫文没後、蔣介石が擡頭たいとうし、北伐を遂行、反共に転じて南京に国民政府を樹立した。第二次大戦後、中国共産党との内戦に敗れ台湾に逃れた。国民党。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中国国民党
ちゅうごくこくみんとう

辛亥革命後の1919年、広州で革命諸派が連合して結成した革命政党。略称KMT(Kuomintang)。英語表記はChinese Nationalist Party。1921年革命派の有力指導者であった孫文(そんぶん/スンウェン)が大総統に就任し、共産党との協力(第一次国共合作)を決定した。1925年孫文が病死後、蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)が指導者となり、1928年全国を統一して独裁政党となった。しかし抗日戦後、共産党との内戦に敗れ、台湾に移動した。2000年の総選挙で民進党に敗れ野党となるが、2008年に与党に復活した。孫文が唱えた三民主義(民族・民権・民生)を党綱領としている。[辻 康吾]

中華民国期(1912~1949年)

1911年の辛亥革命(しんがいかくめい)で最後の王朝清(しん)が倒れ、翌1912年中華民国が成立した。革命運動の有力指導者であった孫文が臨時大総統に就任したが、実力者であった袁世凱(えんせいがい/ユアンシーカイ)に敗れ、南下して広東で革命政権を樹立し、1921年大統領に就任した。1924年中国共産党と合作(第一次国共合作)し、ソ連の援助を得て軍事力を強化した。1925年の孫文の死去以後、蒋介石を指導者として北伐を開始し、その途上1927年に反共クーデターで共産党を弾圧、共産党は地方に逃れ、根拠地を建設し抵抗を続けた。国民党軍は全国統一を完成させ、南京(ナンキン)に首都を置き、独裁体制をとった。しかし共産党を含め、地方勢力との抗争が続く一方、日本の侵出が進み、1936年西安(せいあん/シーアン)事件が発生した。日本軍に東北(満州)を追われた張学良(ちょうがくりょう/チャンシュエリヤン)が蒋介石を軟禁し、内戦の中止と抗日統一戦線の結成を迫った。翌1937年の盧溝橋(ろこうきょう/ルーコウチアオ)事件の勃発(ぼっぱつ)で日中全面戦争が始まり、国民党は共産党とふたたび合作した(第二次国共合作)。日本軍に追われた国民党政権は重慶(じゅうけい/チョンチン)に撤退し、抗戦を続けた。1945年日本が敗北すると、国共両党は重慶で会談するが両党間の内戦が再発し、1949年までに国民党軍は共産党軍に敗れ、台湾に移動した。[辻 康吾]

台湾統治期(1946~2000年)

台湾に移動後も蒋介石は大陸反攻を掲げて中華人民共和国との対決を続け、独裁体制を強化した。しかし独裁体制や政権の腐敗によって大陸から移動してきた「外省人」と「本省人」(台湾省人)の対立が激化し、1947年2月28日大規模なデモが発生し、これを武力鎮圧する「二・二八事件」によって大量の犠牲者(3万人ともいわれる)が出た。1952年蒋介石は大規模な党改革を行い、独裁体制を維持しつつ経済発展を目ざした。台湾海峡ではその後も緊張が続いていたが、1958年人民解放軍の金門島作戦が失敗し、1961年には砲撃戦も中止となり、台湾海峡での攻防は膠着(こうちゃく)状態となった。1972年行政院長に就任した蒋経国(しょうけいこく/チヤンチンクオ)(蒋介石の長男)は、経済発展に力を入れ成功を収めたが、同時に1971年の国連代表権の喪失、1972年の米中接近、日中国交正常化など国際的に孤立化を深めた。1975年蒋介石が死去すると、蒋経国が党首となり、1978年には総統に就任した。
 蒋経国は台湾の民主化を図り、また1984年には台湾出身の李登輝(りとうき/リートンホイ)を副総統に就任させるなど「台湾本省人」への依存を深めた。またアメリカの圧力もあり、1987年からは野党の結成を認め、新聞統制を解除し、台湾への移動後続けられていた戒厳令を解除、民間新聞の発行を許可するなど独裁体制の変革に努めた。1988年蒋経国が死去し、李登輝が台湾出身者として初めての総統となり、国民党主席に就任した。李登輝も台湾のいっそうの民主化を進め、1994年には総統の直接選挙制を敷いた。中国は、李登輝を台湾独立論者として1996年の総選挙を前に大規模な軍事演習やミサイル実験などでさまざまな圧力を加えたが、李登輝が中華民国初の民選総統に選出された。当選後の李登輝は独立色を強め、台湾の主権国家論などを示唆した。[辻 康吾]

多党制時代(2000年~ )

2000年の総統選挙では国民党の分裂もあり、民主進歩党(民進党)の陳水扁(ちんすいへん/チェンシュイピェン)が当選した。民進党は在野時代には台湾独立を掲げたが、与党となった以後は表現を改め、なお独立も模索した。ともあれこれで名実ともに大陸、台湾の独裁政党であった国民党は野党化し、台湾の民主化が完成した。しかし中国は陳水扁を台湾独立派として圧力を強め、大陸との関係は緊張が激化した。2004年の選挙でふたたび民進党が勝利したが、党内および陳水扁一族のスキャンダルが暴露され、2008年の総選挙で国民党に惨敗した。2005年に国民党主席に選出されていた馬英九(ばえいきゅう/マーインチウ)が総統に就任したが、国民党は独裁政党として復活することなく、政権与党として政権を運営している。中国共産党はかつての国共合作の前例もあり国民党を支持し馬政権の台湾との接触を深めている。馬英九も2008年から大陸との直行航空便の開設など「通商・通航・通郵」などのいわゆる「三通」政策を実現させ、大陸との実務関係の緊密化を図っている。だが同時に「統一、台湾の独立、武力行使」のいずれも行わないとするいわゆる「三不政策」をとり、またアメリカから武器を輸入するなど現状維持を続けている。[辻 康吾]
『野村浩一著『蒋介石と毛沢東』(1997・岩波書店) ▽孫文著、安藤彦太郎訳『三民主義』上下(岩波文庫)』

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世界大百科事典内の中国国民党の言及

【国共合作】より

…中国国民党と中国共産党との〈合作〉(提携)をいう。前後2回実現して中国現代史の展開に決定的な意義をもった。…

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