殷汝耕(読み)いんじょこう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「殷汝耕」の意味・わかりやすい解説

殷汝耕
いんじょこう
(1889―1947)

中国の親日的政治家。字(あざな)は亦農(えきのう)。浙江(せっこう/チョーチヤン)省平陽県の人。日本事情に精通し、夫人も日本人。清(しん)末、日本に留学し、旧制第七高等学校に在学中、兄の殷汝驪(じょれい)とともに辛亥(しんがい)革命活躍した。第二革命の失敗後、ふたたび来日して早稲田(わせだ)大学政治科を卒業。帰国後、北京(ペキン)政府の衆議員秘書などを務めた。1926年、郭松齢(かくしょうれい)反乱事件参加、失敗して日本に亡命。のち国民政府に入り、親日的な黄郛(こうふ)とのつながりを深めた。外交総長のとき駐日特派員となり、事実上の駐日外交代表とみなされた。35年、日本が華北の分離を謀り河北(かほく/ホーペイ)省から国民党勢力を排除すると、日本の後押しを受けて通州に冀東(きとう)防共自治政府を組織し、その長官となった。冀東(冀は河北省の別名)23県を支配した同政府は、日本側の密貿易を公認したことで有名。37年、同政権の軍隊が反乱を起こし在留日本人100余名を殺害した通州事件で長官を辞任。以後、北京に隠棲(いんせい)したが、日本降伏後の47年、漢奸(かんかん)として処刑された。

[倉橋正直]

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改訂新版 世界大百科事典 「殷汝耕」の意味・わかりやすい解説

殷汝耕 (いんじょこう)
Yīn Rǔ gēng
生没年:1889-1947

近代中国の政治家。字は亦農。浙江省平陽県の人,早稲田大学出身。辛亥革命には,革命派として参加した。1925年の郭松齢の反張作霖クーデタに協力し,敗れて一時日本に亡命,その後,国民政府の対日問題専門家として活躍した。だが第1次上海事変の処理,塘沽停戦協定の成立などを通じて,日本に急接近し,35年日本の華北分離工作に応じて冀東(きとう)防共自治政府を成立させたため,のちに漢奸として処刑された。ただし,その政治生命は,37年の通州事件により,早くに絶たれていた。
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朝日日本歴史人物事典 「殷汝耕」の解説

殷汝耕

没年:民国36.12.1(1947)
生年:光緒15(1889)
中国読み「イン・ルーケン」。日中提携の妥協政策を推進した親日政治家。浙江省平陽の人。字は亦農。東京第七高中に留学。中国同盟会に入り,辛亥革命(1911)に参加。早大に再留学し,卒業後は北京政府で日中問題に従事。民国15(1926)年,国民革命軍の北伐に参加し,国民政府の駐日特派員などを歴任,日本との関係を深める。同21年上海事変の上海停戦協定,および同22年塘沽停戦協定の締結に参画。日本の華北分離政策に協力し,関東軍特務機関長・土肥原賢二少将と同24年11月,冀東防共自治委員会を設立し委員長となる。のち冀東防共自治政府の政務長官となり,冀東22県を統括。盧溝橋事件後の通州事件で抗日反乱軍に逮捕されたが,日本軍の援助で逃亡して下野。汪精衛の傀儡政権が組織されると,同32年南京国民政府経済委員会委員,治理運河準備処主任,治理運河工程局局長などを歴任。戦後,日本に協力した罪で逮捕され,漢奸裁判によって銃殺された。

(横山宏章)

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百科事典マイペディア 「殷汝耕」の意味・わかりやすい解説

殷汝耕【いんじょこう】

近代中国の政治家。浙江省生れ,早稲田大学出身,妻は日本人。清朝を倒した辛亥革命(1911年)に参加。1925年反張作霖クーデタに加わって失敗し,一時日本に亡命した後,国民政府の対日問題専門家として活躍。しかし日本政府に急接近し,1935年日本軍の傀儡(かいらい)政権〈冀東(きとう)防共自治政府〉を成立させたため,のちに処刑された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「殷汝耕」の意味・わかりやすい解説

殷汝耕
いんじょこう
Yin Ru-geng

[生]光緒15(1889).浙江,平陽
[没]1947.12.1.
中国の政治家。日本に留学し,早稲田大学を卒業。辛亥革命と第二革命に参加し,その後日本に数回滞在。 1925年 11月の郭松齢の張作霖に対する反乱 (郭松齢事件) で郭側に外交部長の資格で参加したが失敗し,日本に亡命。国民革命軍の北伐に参加し,以後国民政府内にあって親日派の黄郛と行動をともにし,駐日外交代表,上海特別市政府秘書,陸海空軍総司令部参議などを歴任。満州事変以後日本の華北分離工作が進むなかで,35年 11月冀東 (きとう) 防共自治委員会 (12月に冀東防共自治政府と改称) が成立すると政務長官に就任したが,37年7月の通州事件で辞任。 45年国民政府に漢奸として逮捕され,47年処刑された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「殷汝耕」の解説

殷汝耕 いん-じょこう

1889-1947 中国の政治家。
光緒15年生まれ。辛亥(しんがい)革命に参加。1925年の郭松齢(かく-しょうれい)事件にくわわり失敗して日本に亡命。のち国民政府にはいる。冀東(きとう)防共自治政府を組織して長官となり日本に協力するが,通州事件で辞職。太平洋戦争後漢奸(かんかん)として逮捕され,1947年12月1日処刑された。59歳。浙江省出身。早大卒。字(あざな)は亦農(えきのう)。

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世界大百科事典(旧版)内の殷汝耕の言及

【華北工作】より

…11月には親日派の汪兆銘外交部長が狙撃されて下野し,その直後に国民政府はイギリス人財政家リース・ロスF.W.Leith‐Rossの援助で幣制改革を成功させ,中国の経済的統一を促進した。日本軍は華北の軍閥をとりこもうとしたが成功せず,悪評高い殷汝耕を主席に11月に非武装地帯を中心に冀東防共自治委員会(12月,冀東防共自治政府と改称)を作らせた。国民政府は殷を国賊として逮捕令を出したが,日本との衝突をさけるため12月に河北・察哈爾両省と北平(北京),天津両市を管轄する冀察政務委員会を作り,第29軍長の宋哲元を委員長とした。…

【通州事件】より

…通州の保安隊のなかにもかねて抗日救国の意識が広がっていたが,この事件で刺激されて翌29日未明に挙兵した。そして冀東政府長官殷汝耕(いんじよこう)を捕らえ,日本軍守備隊,特務機関,日本人の料亭や家屋等を襲撃した。冀東政府のお膝もとだと油断していた特務機関長以下の軍人や居留民など200余人(うち約半数が朝鮮人)が殺された。…

※「殷汝耕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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