播磨国の土一揆(読み)はりまのくにのつちいっき

改訂新版 世界大百科事典 「播磨国の土一揆」の意味・わかりやすい解説

播磨国の土一揆 (はりまのくにのつちいっき)

播磨国に起きた土一揆総称播磨国で土一揆の起きた事例としては,現在まで4例が知られている。第1は,1428年(正長1)11月に起きた土一揆で,このときには徳政令が出されたことが確認される。第2は,1429年正月に起きた一揆で,土民は〈侍を国中に在らしむべからず〉というスローガンのもとに,守護代をはじめとする守護方の軍勢や諸荘園の代官を攻めて,これを討ち取っている。第3は,1454年(享徳3)5月に赤穂郡中の土一揆の蜂起した事実が知られるが,詳しい事情はわからない。第4は,同年11月に東大寺領大部荘を中心にして起こされた土一揆である。この一揆では,攻撃の対象とされたのが,守護方に通じていたうえに高利貸的性格を持っていたとはいえ,地下(じげ)人,百姓であったことが注目されている。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「播磨国の土一揆」の解説

播磨国の土一揆
はりまのくにのつちいっき

正長の土一揆(1428)が播磨国に波及したことをきっかけに,播磨一国で土民が一揆を結び蜂起した事件。正長の土一揆は畿内近国を,徳政を求める土一揆の波に巻きこみ,1428年(正長元)冬,播磨にも波及した。この動きは12月までには収まったと推測される。翌年1月,再び土民たちは蜂起し播磨国内には侍の居住を許さない,との主張のもとに武士たちを攻撃し,国内の荘園代官ばかりか,守護方の軍勢を殺害したり追放したりした。このため守護赤松氏の軍勢は国内各地に転戦して一揆軍と戦い,2月頃鎮圧した。

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世界大百科事典(旧版)内の播磨国の土一揆の言及

【針】より

留具ブローチ【菊池 徹夫】
[日本の針]
 古代の針については,正倉院に実物が残っているほか,《延喜式》巻四十二には都の東西の市で売られていたことが記されている。また播磨国(はりまのくに)は《古事記》に〈針間〉と表記され,《今昔物語集》にも播磨の書写山の聖として有名な性空が,誕生のとき手に針を握っていたという話があって,針の生産地であったらしく,《新猿楽記》には播磨国の名産として針があげられている。中世に多く製作された職人歌合絵(うたあわせえ)の類には,針磨(はりすり)と呼ばれる針づくり職人の姿が見られるが,多くは舞鑽(まいきり)を用いてめど穴をあけているところを描いており,この作業が針づくりの工程の中で重要であったことを示している。…

※「播磨国の土一揆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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