徳政(読み)トクセイ

デジタル大辞泉 「徳政」の意味・読み・例文・類語

とく‐せい【徳政】

徳のある政治。免税・大赦などの目立った恩恵を施す政治。仁政。
鎌倉・室町時代、貸借・売買契約の破棄のこと。幕府は御家人が質入れ・売却などで失った所領を回復させるため、しばしば徳政令を発布した。
[類語]善政仁政民政

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精選版 日本国語大辞典 「徳政」の意味・読み・例文・類語

とく‐せい【徳政】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 天変地妖などの異常現象が君主の不徳によるとみる考えから、それらの災害を除くために、免税・大赦・施物などの特に目立った仁政、善政を行なうこと。
    1. [初出の実例]「有勅、令参議右衛士督従四位下藤原朝臣緒嗣、与参議左大弁正四位下菅野朝臣真道論天下徳政」(出典:日本後紀‐延暦二四年(805)一二月壬寅)
    2. 「此御時彗星たびたび出けれども、度ごとに目出く徳政のおこなわれければ、事もなくてのみ過けると申つたへたり」(出典:愚管抄(1220)二)
    3. [その他の文献]〔春秋左伝‐隠公一一年〕
  3. の物質的な側面、すなわち仏神領の興行、御家人所領の回復を目的とする政策。たとえば鎌倉幕府の永仁徳政令では一定の条件内にある御家人領旧領の無償取戻しを合法化した。室町幕府は売却地の返還のほかに質入れや金銭貸借の破棄を命じる法令を出し、農民などの一揆の要求に応じてしばしば発布された。
    1. [初出の実例]「抑有御得政否、分明可御成敗旨」(出典:東寺百合文書‐は・暦応四年(1341)四月日・若狭太良荘百姓正吉陳状并具書案)
    2. 「土一揆楯籠洛中洛外堂舎仏閣、不徳政者可焼払之由訴訟之」(出典:建内記‐嘉吉元年(1441)九月六日)

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改訂新版 世界大百科事典 「徳政」の意味・わかりやすい解説

徳政 (とくせい)

古代以来,異常な自然現象たとえば彗星の出現,大地震などに際して,そこからひきおこされる災害を免れるために特別の仁政を行うことを〈徳政〉と称したが,中世では徳政令を中核とした一種の政治改革をさす。とくに鎌倉時代後期の弘安~永仁期(1278-99)に,外敵の侵入という未曾有の難局に当面した公武両権力が行った徳政(永仁の徳政)は大きな社会的反響をひきおこし,これ以後徳政はほとんど徳政令の同義語と化した。

 中世の徳政の具体的政策は一定しないが,仏神事および雑訴の興行(盛んに行う)は,つねにスローガンとして掲げられる二大篇目であった。仏神事興行は,神殿や寺塔の修復,定例臨時の祭礼・祈禱の励行などを目的とするのは当然ながら,問題はそれらを経済的に裏づける神社仏寺領の回復をいかに実現するかという方法にあった。平安時代以来,法流の相承と密着して,社寺領の多くが師資相承の相伝の職,相伝の領となり,院主・別当・神主・供僧らの手によって譲与売買されるようになった裏では,本来の仏神物は仏神事の費用に役だつことのない僧物・人物と化していた。

 鎌倉徳政のピークともいうべき1285年(弘安8)11月の朝廷による徳政令は,これら相伝の職を一旦の職ときめつけ,彼らが相伝の領と称して売却譲与した所領は,訴訟がありしだい,本来の仏神物として社寺に返付することを定めている。この法令は二つの点で重要な意義をもっている。第1は顚倒して僧物・人物となっている所領を本来の仏神物にもどす,すなわちものを本来の所属に回帰させた点で,これは御家人の所領を御家人の手にもどすという,ほぼ同時に始まった関東徳政とまったく共通の法理に立脚していた。つまり仏神事興行という徳政にとっていわば超歴史的スローガンが,徳政令という歴史的政策を生みだしたといえるだろう。第2は仏神事興行を,僧侶・神官らのもつ宗教的経済的特権の規制によって行おうとした点である。これより前,後嵯峨上皇の諮問に答えた徳大寺実基の奏状には,仏神事興行は〈人の煩い〉なきよう,〈国の利〉を優先して行わるべき旨が強調されていたが,宗教的権威を国家的利益や民生の安定の下におこうとする,こうした合理主義的な政治思想の上に鎌倉徳政が成立していたものと思われる。事実弘安8年令と同時に石清水八幡宮に下された宣旨には,兵仗や山木伐採の禁止,節約令などの日常的な規制強化のほか,神官・供僧らの族制や主従制の内部にふみ込んだ法令がその大部分を占めているが,こうした処置はおそらく石清水一社に限らない普遍的政策であったと思われる。

 次に〈徳政の最要なり〉とさえいわれた雑訴興行,すなわち裁判制度の拡充策をみると,寄沙汰(よせざた)や嗷訴など,もっぱら宗教的権威をふりかざして国法上の理非裁断の外におかれていた訴訟を禁制する一方,中世社会の現実に対応できなかった訴訟制度を拡充し,〈理非を究める〉ことが現実に可能な制度に向けてようやく一歩をふみ出した。とくにこれも1285年,亀山院政による徳政沙汰雑訴沙汰(一般訴訟)の分離,両沙汰評定の定例化は,もっとも注目すべき改革であった。神事・仏事・任官・文学等を徳政沙汰として雑訴沙汰から分離させたことは,それらに対する徳政施策の具体化を意味すると同時に,従来こうしたいわばより政治的事項の下に埋没していた雑訴沙汰を大きく浮かび上がらせるもので,近代的な表現を用いれば,司法と行政の分離と評価できよう。なおこうした裁判制度の改革には,ほぼこのころまでに,引付評定制を骨格として完成期に入っていた鎌倉幕府裁判制度への追随模倣があったことは明らかである。

 こうして行われた弘安徳政は,関東における安達泰盛の失脚,両統迭立による政権の短命化などによって具体的には大きな成果をあげえないままに終わったが,少なくとも政治思想の面では後醍醐天皇による建武新政へとつながるものがあったと考えられる。
寺社興行法

売却地の取りもどし,債権債務の破棄などを定めた朝廷・幕府・守護大名などの法令。本来一種の政治改革である徳政のうちの一つの政策として実施された。《万葉集》にみえる〈あきかえし〉など,古代においても徳政令に類似した法的措置が繰り返し行われたといわれるが,実態は明らかでない。立法の事実,内容,実施状況などが明らかとなるのは鎌倉時代後期以後であり,とくに1297年(永仁5)の幕府の永仁徳政令は,徳政の名を一挙に社会の上下に浸透させた。その内容は,(1)今後所領の売買質入れを禁止,(2)既売却地・質流れ地の無償返付,(3)債権債務についての訴訟を受理しない,(4)越訴(おつそ)制を廃止する,などである。幕府の立法目的は(2)(3)によって御家人所領の復元を企図した点にあったが,現実には御家人所領に限らず,広範な旧領回復令という社会的効果をあげた。ところで,合法的な売却地の無償取りもどしというような,一見きわめて反社会通念的立法が行われ,しかも比較的やすやすと社会に受け入れられたのはなぜかという疑問に対しては,元来日本には仏物・神物・人物というような大きな“ものの区分”が存在し,いったん他の区分へ移動したものを本来の区分へもどすことを当然とみなす社会通念があり,したがって御家人のものを御家人に返すというこの徳政令にも,大きな社会的違和感がなかったという説も行われている。一方朝廷側においても,社寺領の回復を目的とする政策が文永期(1264-75)ごろから部分的に行われ,とくに1285年(弘安8)には,本来仏神物たるべき所領が,神主や別当の手を通じて人物と化していたのを回復させようとする立法が行われた。また後醍醐天皇の建武政府も1334年(建武1)5月,承久年間(1219-22)以後の売却地で,この戦乱で買主が滅亡した所領の返却などを内容とする徳政令を出したが,ほとんど効果をあげえなかった。

 室町時代に入ると,正長(1428-29)以後たびたびの土一揆(つちいつき)が幕府徳政令の発布を要求したこともあって,将軍義政の時代に13回も数えられるといわれるほど,頻々と徳政令が発布された。室町徳政令の嚆矢であり,以後のモデルとなった嘉吉元年令(1441)を例にすると,山門の猛反対で取り消された永代売買地のほか,仏物・神物たる寺社の債権も対象から除外されたのに対し,本銭返し年季売,借銭,質券地などに徳政を適用した。また農民の未進年貢も借銭と同様に扱われたとみる説も行われている。こうした徳政令や私徳政によって土倉の質物が減少し,幕府の財源となる土倉役もそれに応じて激減したため,幕府は借銭の一割を納付した債務者に限って徳政を適用する分一(ぶいち)徳政令,逆に分一銭を納めた債権者の債権は徳政から除外する分一徳政禁令など,幕府財政のための徳政令も立法したが,いずれも実効をあげえなかったといわれる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳政」の意味・わかりやすい解説

徳政
とくせい

本来は、天変地異や疫病の流行などを君主の不徳によって生ずるものとして、それを除くために大赦、免税、貧窮者の債務免除などの際だった善政、仁徳ある政治を行うことであった。しかし中世ではもっぱら貸借、売買の無効、破棄を意味するようになる。

[酒井紀美]

鎌倉後期の公武徳政

徳政の意味がこのように変化する過程には、鎌倉後期に相呼応するかのように行われた公家・武家の徳政が大きくかかわっている。鎌倉幕府はその権力基盤をなす御家人(ごけにん)が質入れ、売却などによって所領を失い「無足(むそく)の御家人」となっていく動きを抑制するため、1267年(文永4)に最初の徳政令(所領回復令)を出し、さらに84年(弘安7)安達泰盛(あだちやすもり)の主導で展開された政治改革においても、徳政と所領回復令の一体化を進めることになった。一方、このころ公家のほうでも亀山(かめやま)院政によって徳政が積極的に行われ、仏神事の興行を目的として、寺社領の売却、質入れを無効とし本主への返還を命じている。徳政とはすなわち所領回復令だとする傾向は、1297年(永仁5)に幕府が非御家人、凡下(ぼんげ)に売却、質入れした御家人の所領をすべて無償で取り戻しうるとした永仁(えいにん)の徳政令を出すに至って、決定的なものとなる。

[酒井紀美]

私徳政、在地徳政と地起

中世農民の売券(ばいけん)に数多くみられる徳政文言(もんごん)のうちに、「天下一同又ハ公家武家之土一器(揆)等御徳政」というのがある。これは徳政が、朝廷あるいは幕府、守護などによって行われるだけでなく、土一揆によっても行われることを示すものである。公権力による徳政令が発布されたか否かにかかわりなく、土一揆が酒屋・土倉(どそう)に押し寄せ借書を破り質物を取り戻すといった実力行使に及ぶこと、あるいは地域の土豪連合や惣村(そうそん)が貸借関係の破棄・土地の取り戻しを認めることなどを、私(し)徳政・在地徳政とよんでいる。また、伊勢(いせ)、大和(やまと)を中心とする地域の売券には、売却地や質入れ地の取り戻し行為をさす「地起(じおこし)」(地興、地発)ということばがみられる。これらは中世社会にあって私的な徳政行為が広く行われていたことをうかがわせるものである。ただ、こうした私徳政はいずれも中世の後期になって姿を現してくるので、その限りでいえば、まず幕府などの公権力の徳政令があり、それに触発される形で私徳政が生まれてきたかにみえる。

 しかし、近年の徳政論や「地起」をめぐる議論によれば、逆の事態が想定される。中世社会には、開発地と開発者の密接な結び付きに示されるような「土地と本主の一体化観念」が根強く存在しており、たとえ売買や質入れによって所有が移動しても、それは「仮の姿」であるとされた。こうした観念を背景に、元に戻す=本来のあるべきところに戻す=「復活」を本質的な内容とする徳政が行われたのである。こうした観点からすれば、「私徳政、在地徳政の海の中に、公武徳政の島が浮かんでいる」ということになる。

[酒井紀美]

徳政一揆

土民(どみん)が「徳政と号して」蜂起(ほうき)する徳政一揆は、1428年(正長1)近江(おうみ)(滋賀県)に始まり畿内(きない)近国へとその動きが拡大していった正長(しょうちょう)の土一揆以来、戦国時代に至るまで頻繁に起こっている。1441年(嘉吉1)の土一揆は、京都周辺の土民数万人が京都の堂舎16か所に陣取り、洛中(らくちゅう)に攻め入って土倉を襲撃し、初めて室町幕府に「天下一同徳政令」(全国的に徳政を認める)を出させることに成功した。この動きは大和、伊勢、三河、若狭(わかさ)にも及び、とくに若狭国(福井県)太良荘(たらのしょう)では幕府の徳政令に対して「田舎(いなか)の大法」を主張する農民の姿がみられる。その後も1447年(文安4)、54年(享徳3)、57年(長禄1)と相次いで土一揆の蜂起があり、そのなかで私徳政も盛んに行われるが、享徳(きょうとく)の土一揆に際して幕府が「分一(ぶいち)徳政令」を出すに及んで、土一揆の目標は不鮮明なものとなる。またその基盤となっている惣内部に、土豪層と一般百姓という階層分化を際だたせるようになり、長禄(ちょうろく)以後の土一揆は組織性、連帯性を欠いたものとなっていく。「分一徳政令」とは、債務の10分の1を幕府に納めた者に限り徳政認可の奉書を与えるというもので、これにより合法的に徳政を認められるのは分一銭を納入できる富裕層に限られ、それが不可能な土民にとって徳政令獲得は債務からの解放を意味するものではなくなってしまう。しかも幕府は、徳政令によって減少した土倉役を、分一銭収取によって補填(ほてん)しうることになるのである。

 しかし、「徳政と号して」蜂起した一揆が「私徳政、在地徳政の海」を背景にもつ以上、その徳政の内容を幕府の徳政令に限定してとらえることはできない。嘉吉(かきつ)の徳政令に対し「田舎の大法」を主張した若狭国太良荘の事例は、それを物語るものである。また1457年(長禄1)大和国(奈良県)布留(ふる)郷の郷民が山城(やましろ)国(京都府)の一揆に呼応して立ち上がり、布留郷に徳政を実施し、未進年貢の破棄、荘の桝(ます)を小さくする行為に及んだため、興福寺の発向を受けた事件などをみると、一揆が求め、そして実行した徳政の内容は、単に貸借関係の破棄や土地取り返しにとどまらず、未進年貢の破棄や、年貢収奪の象徴ともいえる収納桝を小さくし年貢の減免を図るといった、彼らの日々の生活に深くかかわる問題の解決を図ろうとするもので、さらに「世の生まれかわり」、再生を求める意識をも内包していたのである。

[酒井紀美]

『三浦周行著『法制史の研究』(1919・岩波書店)』『中村吉治著『土一揆研究』(1974・校倉書房)』『桑山浩然著『室町時代の徳政』(『中世の社会と経済』所収・1962・東京大学出版会)』『笠松宏至著『日本中世法史論』(1979・東京大学出版会)』『笠松宏至著『徳政令』(岩波新書)』『田中倫子著『徳政一揆』(『一揆2』所収・1981・東京大学出版会)』『勝俣鎮夫著『戦国法成立史論』(1979・東京大学出版会)』『勝俣鎮夫著『一揆』(岩波新書)』

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百科事典マイペディア 「徳政」の意味・わかりやすい解説

徳政【とくせい】

鎌倉〜戦国時代に発布された債権・債務の破棄令。本来は仁政の意味だが,中世には徳政令を中心とした一種の政治改革をさす。鎌倉幕府御家人救済のため1297年永仁(えいにん)の徳政令を発布,非御家人・凡下(ぼんげ)の質取・買得地を無償で本主に返付させた。室町幕府も徳政一揆(いっき)に迫られ,徳政令を発布。のち幕府が債権・債務者双方からの手数料(分一銭(ぶいちせん))徴収を目的とした分一徳政令が多くなった。ほかに土倉(どそう)を襲って質物を奪い返し,借用証文を焼却した私徳政も行われた。
→関連項目一揆掟書嘉吉の土一揆蒲御厨寛喜新制寄進状建武以来追加質地騒動正長の土一揆土一揆長瀞(山形県)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳政」の意味・わかりやすい解説

徳政
とくせい

奈良時代以降課役,田租の減免,貧窮者の救済,大赦などの善政をいったが,鎌倉,室町時代には債権,債務破棄の政策をいう。永仁5 (1297) 年鎌倉幕府は貨幣経済の進展に伴う御家人の貧困化を救済するため,売買,質入れされた所領の無償返還と貸借関係を破棄する命令を出した。これが永仁の徳政令である。室町時代には,酒屋,土倉などの金融業者の勢力が増大,その高利に苦しんだ畿内とその周辺地帯の地侍,農民らが武力蜂起して幕府徳政令の発布を強要した。これは徳政一揆と称された。享徳3 (1454) 年幕府は当事者から貸借額の 10分の1を公納させて,徳政令の適用を受けさせる政策をとり,公納銭を幕府財源とした。これを分一徳政といい,以後の幕府の行う徳政はいずれも分一徳政であった。このほか寺院や大名が寺領内,領国内に発布した例や,土一揆によって実力で借用証文の破棄,質物奪取を行なった例 (→私徳政 ) もあった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「徳政」の解説

徳政
とくせい

一般的には仁徳のある政治,善政を意味するが,債務破棄・売却地の取り戻しをもさす。本来の姿が正しく,世の秩序が時代とともに崩れていくのだという前近代社会の特徴的な観念にもとづけば,本来あるべき姿への回帰,秩序の復活に相当する。古代社会には,売却・譲渡したものを取り戻すことができる商返(あきかえし)の慣行があり,債務の破棄などが行われた。これが荘園整理令をへて,中世には,公家においては寺社領の,幕府においては御家人領の復活となって現れ,とくに弘安年間には公武一同の徳政として現れた。その眼目には,雑訴の興行すなわち裁判制度の拡充も含まれたが,これも本来あるべき姿を確定するための手段であったといえる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「徳政」の解説

徳政
とくせい

中世以後,債権・債務の破棄をいう
元来は課役免除などの善政をいったが,鎌倉時代には,御家人の生活窮乏を救うための貸借破棄を意味した。室町時代には徳政令発布を要求した徳政一揆が頻繁におこった。

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普及版 字通 「徳政」の読み・字形・画数・意味

【徳政】とくせい

仁政。

字通「徳」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の徳政の言及

【小倭郷一揆】より

…第1はほぼ同時に作成された百姓衆起請文との比較から,全郷的な地侍一揆の下に近世の村規模単位の農民的結合〈百姓衆〉の存在が確認されることと,また一揆は百姓衆の支配を強化する目的で,結成されたことがわかる点。第2の特色は一揆が〈此方嘉例之徳政〉といわれる郷内独自の私徳政をもっており,それを管掌する〈徳政衆〉という機構をも備えていた点である。中世社会に広く在地固有の徳政が存在することを証明するうえで最も基本的な史料を提供してくれる一揆である。…

【私徳政】より

…幕府などの公権力が発布した徳政令によらず,私的に徳政の名で本来の持主が売買物,質入物を取り戻すこと。室町時代の社会の基層部には,なお移転した物,とくに土地は本来の持主のもとに帰るのが正しい姿であるという観念が強く存在し,種々の〈交替〉観念にもとづく契機により私徳政が行われる,〈徳政状況〉ともいうべき状態が存在した。…

【徳政一揆】より

…中世に徳政を要求して起こった土一揆(つちいつき)。荘園単位で領主に年貢の減免などを要求して起こった荘家の一揆と区別される。…

【徳治主義】より

…まず,律令制がしかれ,中国の政治制度が本格的に採り入れられるに従い,天皇をはじめとする統治の任にある者が徳を有し,その徳をもって民を教化し,仁政を施すことが望ましいとの考えは,当事者たちの間で,少なくとも正面からは否定しにくい建前となった。とくに古代においては,天皇が詔勅等においてしばしば〈徳薄くして位にある〉と謙遜し,災害発生をその〈菲徳(ひとく)故〉とみずから責めており,一方,宮廷知識人の書いたとくに漢文の文章には天皇などによる〈徳化〉〈徳政〉をたたえる表現はそれ以降普通である。武士もその影響を受け,室町幕府が守護には〈有徳(うとく)者〉を任ずるべきであるとしたこともある(1338)。…

※「徳政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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