15世紀から16世紀にかけて展開された地侍(じざむらい)・農民の連合による支配階級に対する闘争の一形態。土民(どみん)の一揆を略称したものであるから「どいっき」と読むべきだという意見もあるが、現在までに知られている仮名書きの史料では、すべて「つちいっき」になっている。
鎌倉末期以降、畿内(きない)やその周辺地域で、しだいに形成されてきた村落の自治的組織(惣(そう)結合)を基盤として、南北朝時代になると、年貢・公事(くじ)の減免、非法代官の改替、井料(いりょう)の下行(げぎょう)(用水の管理費の給付)などを要求する逃散(ちょうさん)、強訴(ごうそ)、荘家(しょうけ)の一揆などの闘争が展開された。これらは、個別の荘園村落が主体となり、その領主に闘争が向けられていたが、15世紀に入ると、郷村(ごうそん)間の広範な連合による武力蜂起(ほうき)がみられるようになってくる。この闘争が土一揆である。その初見は、1428年(正長1)に山城(やましろ)、近江(おうみ)、大和(やまと)、摂津(せっつ)、播磨(はりま)、河内(かわち)、伊賀(いが)、伊勢(いせ)、紀伊(きい)などの諸国で徳政(とくせい)令の発布を要求して土民が蜂起した事件である。このときには、少なくとも近江、河内、摂津、播磨、大和の五か国で国別の徳政令が出されたことが知られている。
ついで、1441年(嘉吉1)に京都近郊で大規模な土一揆が起きている。このときには、数万人の土民が京都の諸口を取り囲み、16か所に陣を張って交替で京中を攻めた。そのために、京中の酒屋・土倉(どそう)などの高利貸業者が蔵を開き質物を返却し、大きな経済的打撃を受けた。また、京中に米が搬入できなくなり、庶民生活へも大きな影響が出た。幕府は一揆を鎮圧することができず、徳政令の発布を認めたが、このとき一揆側がこの徳政令の内容に注文をつけていることが注目される。『建内記(けんないき)』同年9月12日・14日条によれば、幕府が農民に限って徳政令を適用しようとしたのに対して、一揆側は公家(くげ)・武家を含めた「悉皆(しっかい)」「皆同(かいどう)」の徳政令を要求したのである。
ついで、1457年(長禄1)に起きた一揆には注目すべき点が多い。この年の一揆は9月10日ごろの法性寺(ほっしょうじ)乱入から始まるので、これは京都南郊の一揆と考えられる。ついで同25日ごろ京中で活躍していたのは、京都の西郊西岡(にしがおか)の一揆といわれる。ところが、幕府は同15日に宇治橋を引き払って土一揆を防御することを命じている。このことから京都を遠く離れた南山城の相楽(そうらく)・綴喜(つづき)両郡での土一揆蜂起が京都に伝わっていたことがわかる。この南山城の土一揆は26日に宇治(うじ)の在家を焼き、29日には木幡(こはた)山を経て洛中(らくちゅう)に攻め込む。このため、京都の南部の土倉が蔵を開いているが、『経覚私要鈔(きょうがくしようしょう)』の11月朔日(さくじつ)条によると、早くから京都で蜂起していた竹田・九条・京中の一揆は借銭の10分の1を出して質物を持ち帰るのに対し、田舎(いなか)者は無料で取り返していることが記されている。これらの事実から、多人数の一揆が京都を攻めている場合にも、それぞれの蜂起した地域ごとに、まとまって参加していることや、質物の請け出し方にも相違のあることが明らかになる。一方、京都では一揆を防ぐために京中の土倉たちが武力をもって闘っていることも注目される。また、南山城の一揆は京都を攻めたあと、11月9日ごろから奈良をも攻めている。しかも、この南山城の一揆は、蜂起とともに徳政令の発布を求める目安状(めやすじょう)=申状(もうしじょう)を用意して、これを興福寺(こうふくじ)に提出しようとしていた。土一揆の組織性を示す好例である。
このように土一揆の多くは徳政令の発布を求める徳政一揆の形をとっている。これは、当時の貨幣経済の農村への浸透の結果、地侍・農民が高利貸資本と接触し、土地を抵当に借財し、そのために土地を失うという状況が各地にみられたことと深い関連をもっている。徳政一揆は、都市高利貸資本の農村への進出、それに伴う剰余生産物の都市への集中を食い止めようとする地侍・農民の闘争として成立したのである。しかし、当時の酒屋・土倉といった高利貸資本は、幕府の重要な財源ともなっていたところから、徳政一揆は幕府とも鋭く対立するものとなっていった。また、1428年(正長1)や1562年(永禄5)の大和の徳政令では、前年以前の未進年貢も徳政令の対象となっており、その意味で土一揆は荘園領主とも対立した。しかし、15世紀末ごろから、農村での階級分化が進み、地侍層が土地集積を行うようになると、農民の要求と背反する面が多くなり、しだいに下火となっていった。
なお、土一揆には、このように徳政令を要求したもののほか、関所の設置に反対したものや、段銭の賦課に反対して蜂起したものもある。
[黒川直則]
『中村吉治著『土一揆研究』(1974・校倉書房)』▽『鈴木良一著『純粋封建制成立における農民闘争』(1959・日本評論社)』▽『鈴木良一著『日本中世の農民問題』改訂版(1971・校倉書房)』▽『稲垣泰彦著『日本中世社会史論』(1981・東京大学出版会)』▽『峰岸純夫編『土一揆』(『シンポジウム日本歴史9』1974・学生社)』▽『稲垣泰彦・戸田芳実編『土一揆と内乱』(『日本民衆の歴史2』1975・三省堂)』
中世の民衆の集団的な蜂起。土一揆の語の初見は1354年(正平9・文和3)だが,本格的な一揆の展開するのは1428年(正長1)の正長の土一揆以後で,15世紀を中心に16世紀にも及んだ。土一揆は土民一揆の略で〈どいっき〉と発音したと推定することも可能だが,仮名書きの史料では〈つちいっき〉と記されている。土一揆と呼ばれる以前から,惣村に拠る農民は,領主に対して年貢や公事の減額や免除,あるいは代官の罷免を要求して集団的な訴訟・強訴(ごうそ)をくりかえした。要求が容れられなければ逃散(ちようさん)つまり耕作放棄という非常手段で闘った。この強訴逃散は荘家の一揆(しようけのいつき)とも呼ばれ,武力蜂起に近いものもあった。荘家の一揆は荘園単位の闘争で,荘園の枠を超えて徳政を要求した土一揆つまり徳政一揆とは区別されるが,両方を含めて土一揆と呼ぶことができる。荘家の一揆を基盤にして徳政一揆が起こると考えられるが,徳政一揆の時代になっても,個別の領主との間では荘家の一揆が起こる。14世紀の一揆は荘家の一揆が中心であるが,一方で債務破棄を要求して土倉・酒屋を襲撃する動きが14世紀の後半に散発的に見られるようになる。15世紀に入ると米の売買をめぐる紛争で近江の馬借(ばしやく)が京都に押しかけ,寺社にたてこもる事件が頻発した。これらの動きが荘家の一揆の流れと合流した最初の現れが,正長の大土一揆であった。1297年(永仁5)に鎌倉幕府が債務破棄を内容とする徳政令を出して以来,徳政を期待する風潮が醸成されていたこともあって,徳政要求で一致する諸階層の広範なエネルギーが集中したのであった。
正長の土一揆は近江の土民の蜂起が口火になって,京都周辺の地下人(じげにん)が徳政と号して京都の土倉を襲って,借書を焼き質物を奪い返すなどの私徳政をくりひろげた。その一隊は東寺を占拠した。この蜂起はほぼ2ヵ月続き,その間に近畿地方一円に波及し,私徳政をおし進めただけでなく,守護ないしそれに準ずる権力から徳政令を出させた。以後数年おきに,京都と奈良を目標とする土一揆がくりかえされ,他の地方でも京都の一揆の波及,あるいは独自の土一揆が頻発した。1441年(嘉吉1)の嘉吉の土一揆は,将軍足利義教の暗殺された嘉吉の乱に乗じて起こされ,土一揆史上最大の規模に達し,幕府の徳政令をかちとった。京都へ入る道の口々を占拠して市中を制圧し,見物人を追い払ったうえで土倉にせまって私徳政を行い,幕府との交渉では,土民に限った徳政令を公家,武家にも及ぶ一国平均の徳政令に改めさせるなど,この徳政令は統制力と政治判断の高さを示す内容をもっている。
このように組織的な土一揆は応仁・文明の乱後の80年(文明12)の一揆まで見られた。惣村に結集した農民が寄合(よりあい)で一揆への参加を決定し,惣村・惣郷単位で行動したようすが知られる。地侍(じざむらい)・土豪層の指導なしには強い組織性は考えられないが,主体は土地の取戻しを求める農民であったと思われる。しかし応仁・文明の乱ころから指導層の地侍・土豪層が諸大名の勢力下に組織されていったため,土一揆が政争に利用されたり,少数者の暴発に陥ったりして,しだいに衰退していった。1485年から93年(明応2)まで続いた山城国一揆をはじめ,各地に国人・土豪層の地域権力樹立をめざす国一揆(くにいつき)が起こったが,これらは農民に対する支配権力である面とともに,土一揆の発展という面も含んでいる。
執筆者:村田 修三
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中世後期に民衆が集団的力を発揮するために結んだ一揆。中核は土民・地下人(じげにん)とよばれる土着の侍身分以下の階層と考えられ,史料上の初見は1354年(文和3・正平9)。14世紀末から売券に徳政実施の主体として記され,また1443年(嘉吉3)に,若狭国で神物・仏物をも対象とする独特の徳政令を土一揆が制定したと史料にみられるように,この時代,土一揆を徳政実施の資格をもつ主体とする観念が民衆の間にあった。じじつ正長の土一揆(1428)や嘉吉の土一揆(1441)のように支配者の代替りを理由に,みずから徳政を実施し,幕府にも徳政令発布を求めて蜂起するのが特徴的行動である。このような行動は16世紀後期までみられた。土一揆の特徴は徳政のみにとどまらず,山城国伏見荘地下人の一揆も「土一揆所行(しょぎょう)の間,誰を張本とも申し難し」と記され,一向一揆も土一揆とよばれる場合があり,地下人を主体にした一揆の総称として使用されている。
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…中世の民衆の集団的な蜂起。土一揆の語の初見は1354年(正平9∥文和3)だが,本格的な一揆の展開するのは1428年(正長1)の正長の土一揆以後で,15世紀を中心に16世紀にも及んだ。土一揆は土民一揆の略で〈どいっき〉と発音したと推定することも可能だが,仮名書きの史料では〈つちいっき〉と記されている。…
…半済はのち永続的,全国的となり,荘園の年貢だけでなく,土地そのものを半分に分割するようになって,荘園制を崩壊に導いた。
[土一揆と馬借]
鎌倉中期以来,農村では農民の自治的結合としての惣(村)が形成された。近江の農村はとくに先進的であり,すでに1262年(弘長2)現存最古の村掟(村法)が蒲生郡奥島荘で制定されている。…
…とくに京都は地方荘園経済や日中貿易などの海内財貨の集散地であり座の本拠であったから,貨幣への欲求は大きく,室町幕府財政への浸透を含め,高利貸資本の活躍はめざましかった。農地担保金融への進出は土一揆の原因にもなった。 近世社会では西鶴の作品にみられるように金貸や質屋は,封建制下の貨幣経済の進展とともにまず上方の都市で旺盛となり,しだいに全国の城下町や農村に拡散し,本百姓層,都市職人・小商人・下級武士層などに浸透した。…
…中世に徳政を要求して起こった土一揆(つちいつき)。荘園単位で領主に年貢の減免などを要求して起こった荘家の一揆と区別される。…
…中世後期に陸上運輸業者の馬借が集団で蜂起した事件。土一揆(つちいつき)の先頭を切った行動として注目されているが,元来山門の強(嗷)訴(ごうそ)の一環として登場した事件である。1379年(天授5∥康暦1)6月,近江坂本の馬借1000余人が京の祇園社に討ち入ったというのが初見で(八坂神社〈社家記録〉),山徒(山門の下級僧侶)の一員でありながら幕府と結託して権勢を振るった円明坊と,関のことで争ったことが原因であった。…
※「土一揆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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