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文珠九助 もんじゅ くすけ

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

文珠九助 もんじゅ-くすけ

1725-1788 江戸時代中期の一揆(いっき)指導者。
享保(きょうほう)10年生まれ。山城(京都府)伏見の刃物鍛冶(かじ),町年寄役。天明5年丸屋九兵衛,麹屋(こうじや)伝兵衛らと,伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴した(天明伏見騒動)。江戸での取り調べ中,天明8年1月3日病死。64歳。小堀は免職,改易となった。

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朝日日本歴史人物事典の解説

文珠九助

没年:天明8.1.3(1788.2.9)
生年:享保10(1725)
天明5(1785)年山城(京都府)伏見町民一揆の指導者のひとり。伏見町下板橋2丁目の刃物鍛冶屋の7代として生まれ,家業を継ぎ四郎包光,宗兵衛を称した。晩年家業を子に譲り,九助と改名,同町の町年寄を務めた。伏見町は水陸交通の要衝として幕府が伏見奉行をおいて支配し,安永8(1779)年より近江小室藩主小堀政方が着任したが,深刻な藩財政難の打開のために,伏見町民への御用金賦課をはじめとする苛斂誅求が行われた。天明3~4年には飢饉も重なり,町民の怨嗟の声は高まり,5年,九助は丸屋九兵衛,麹屋伝兵衛らと語らい,全町民の支持のもとに江戸への出訴を企てた。5月に出府した九兵衛のあとをうけて,7月九助も出府,9月16日寺社奉行松平資承に駕籠訴した。さらに10~11月には追訴状を提出し,12月評定所において訴状は受理され,同時に帰国を命じられた。江戸越訴は功を奏し,小堀政方は伏見奉行を罷免されたが,九助ら関係者約70名も6年1月京都で拘引され取り調べられ,九助ら9名は7年12月江戸に送られて再度取り調べが続いた。九助は老齢の身に病を得,江戸の公事宿にて病死し,その後の8年5月6日,ようやくお構いなしとの判決がおりた。江戸深川陽岳寺の住職照道が九助らの出訴の援助をした縁で,同寺に伝兵衛,九兵衛らと共に葬られた。また関係者の碑が伏見大黒寺,御香宮境内にそれぞれ建つ。<参考文献>『京都の歴史』6巻

(藪田貫)

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

文珠九助
もんじゅくすけ
(1725―1788)

江戸後期、天明伏見(てんめいふしみ)騒動の中心人物となった義民。山城(やましろ)国伏見(京都市)の町年寄役もした町人で、家業は刃物鍛冶(かじ)。伏見奉行(ぶぎょう)の小堀和泉守政方(いずみのかみまさかた)の増税と御用金賦課に対し、同志5人と計って江戸直訴を実行。寺社奉行の取り上げるところとなり、政方は罷免となったが、九助らも京都ついで江戸に送られて過酷な取調べを受けた。その過程で同志7人のうち5人まで病死、残る文珠九助と丸屋九兵衛(くへえ)の2人だけが江戸に送られたが、この2人も吟味中に病死。この騒動は町人一揆(いっき)の代表といえ、記録「雨中之鑵子(かんす)」は有名である。東京深川の陽岳寺に墓があり、京都市伏見区の御香宮(ごこうぐう)神社に顕彰碑がある。[横山十四男]
『『雨中の鑵子』(『日本庶民生活史料集成6』所収・1968・三一書房) ▽横山十四男著『義民』(1973・三省堂)』

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