朝日日本歴史人物事典 「文珠九助」の解説
文珠九助
生年:享保10(1725)
天明5(1785)年山城(京都府)伏見町民一揆の指導者のひとり。伏見町下板橋2丁目の刃物鍛冶屋の7代として生まれ,家業を継ぎ四郎包光,宗兵衛を称した。晩年家業を子に譲り,九助と改名,同町の町年寄を務めた。伏見町は水陸交通の要衝として幕府が伏見奉行をおいて支配し,安永8(1779)年より近江小室藩主小堀政方が着任したが,深刻な藩財政難の打開のために,伏見町民への御用金賦課をはじめとする苛斂誅求が行われた。天明3~4年には飢饉も重なり,町民の怨嗟の声は高まり,5年,九助は丸屋九兵衛,麹屋伝兵衛らと語らい,全町民の支持のもとに江戸への出訴を企てた。5月に出府した九兵衛のあとをうけて,7月九助も出府,9月16日寺社奉行松平資承に駕籠訴した。さらに10~11月には追訴状を提出し,12月評定所において訴状は受理され,同時に帰国を命じられた。江戸越訴は功を奏し,小堀政方は伏見奉行を罷免されたが,九助ら関係者約70名も6年1月京都で拘引され取り調べられ,九助ら9名は7年12月江戸に送られて再度取り調べが続いた。九助は老齢の身に病を得,江戸の公事宿にて病死し,その後の8年5月6日,ようやくお構いなしとの判決がおりた。江戸深川陽岳寺の住職照道が九助らの出訴の援助をした縁で,同寺に伝兵衛,九兵衛らと共に葬られた。また関係者の碑が伏見大黒寺,御香宮境内にそれぞれ建つ。<参考文献>『京都の歴史』6巻
(藪田貫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報