民衆社会の正義と幸福のために一身を犠牲にした者。とくに江戸時代についていう。民衆社会に降りかかる厄災を除くために一身を挺(てい)し、そのために犠牲になった者を広くさすが、とくに領主の非法に抵抗して一揆(いっき)を指導し刑死した者を義民(義人)とよぶことが多い。
義民は、死んだ人間を神として祀(まつ)るという神観念(人神信仰)を一つの要素にして成立する。その死が、共同体の存続のための非業(ひごう)の死という性格をもつため、祀られた神は共同体の者にとっては祟(たた)る神と観念されることが多い。そのため、神格としては、明神(みょうじん)や地蔵尊(じぞうそん)など、さまざまなものがあるものの信仰の性格はおおむね祟る神を祀るものとしての御霊(ごりょう)信仰となる。したがって、義民を祀る信仰(義民信仰)は子孫(共同体)が供養し続けることを義務づけ、非業の死の因となった領主の非法が二度と行われぬことを要求するものとして成立し、それらが破られれば祟ると観念される。こうして義民信仰は人々の間に一揆を記憶させ、領主の恣意(しい)を阻止するものとして成立する。しかし、義民のなかにはこれらの場合とは違って、農業神(農神)になるものもあった。この場合は豊穣(ほうじょう)の効果をもたらすものとして年々の生産労働のなかで人々に記憶されていく。ほかに、特定の病気に霊験(れいげん)ありとされる義民もある。
前記のような義民を生み出す民衆の抵抗運動は、代表越訴(おっそ)や惣百姓強訴(そうびゃくしょうごうそ)の形態をとる一揆が多い。それはこの一揆が共同体の全体的な利益を代表することが多いからで、幕末の世直し一揆や村方騒動のように共同体の内部の対立を契機にする運動からは出にくい。義民のなかで実際に大きな影響力をもったものは江戸初期の義民で、代表越訴型の一揆から出てくる佐倉惣五郎(さくらそうごろう)(宗吾)や松木長操(ちょうそう)、磔茂左衛門(はりつけもざえもん)らがある。これらの義民の場合には、徹底した領主の悪政、崇高な犠牲的行動、壮烈な刑死、目的の達成など義民を構成する要素がすべて含まれるが、もともとの事件(一揆)自体はあいまいな点が多い。しかし、義民像としては義民伝承としてしだいに肥大化して有名になり、中後期の一揆の成立を助けることがあった。たとえば佐倉惣五郎は18世紀中葉以降、義民伝承として流布し、幕末には歌舞伎(かぶき)の演題の一つに仕組まれて人気を博し、伊那南山(いなみなみやま)一揆では宗吾(そうご)大明神が勧請(かんじょう)され、宗吾講談で農民が勧誘されたりもした。
義民を創造するのは民衆であるが、義民を顕彰するのは民衆だけではない。むしろ民衆が禁制の徒党の指導者を大々的に祀ったり供養することは本来許されぬことで、そのため、民衆が顕彰する場合には気づかれぬよう巧妙にくふうした墓碑、義民碑がつくられ、ひそかに顕彰行事が行われたりする。他方、領主が領民を慰撫(いぶ)するために顕彰したり、村役人が小前(こまえ)百姓の意を迎えるために顕彰することもあった。明治以降も現在に至るまで、民衆の権利の伸長のために義民を祀る立場と、地域の統合のために祀る立場の二つの流れが続いている。
[深谷克己]
『横山十四男著『義民』(三省堂新書)』▽『横山十四男著『百姓一揆と義民伝承』(教育社歴史新書)』▽『児玉幸多著『佐倉惣五郎』(1958・吉川弘文館)』
百姓一揆の指導者として,多数の農民のために一身をささげた者をいう。江戸時代にはこの用語はなく,明治維新後まず義人の呼称が使われたが,大正期ごろから義民の呼名が一般化した。全国的に有名な義民としては,承応年間の下総国佐倉藩の佐倉惣五郎,天和年間の上野国沼田藩の杉木茂左衛門(磔(はりつけ)茂左衛門ともいう),承応年間若狭国小浜藩の松木荘左衛門(長操),貞享年間信濃国松本藩の多田加助(加助騒動),寛政年間伊予国吉田藩の武左衛門(武左衛門一揆)などがある。そのほか有名・無名の義民は,おそらく百姓一揆の件数と同じ,もしくはそれ以上の多数にのぼるに違いないが,現在では不明になったものが多い。
義民として顕彰されている者の多くは,江戸前期の百姓一揆の指導者,とくに代表越訴(おつそ)型の義民であって,実質的業績の明確でない者もかなり多い。文書史料がほとんど残らず,伝承として語り伝えられた場合が多いが,義民伝承には内容的に共通性が見られる。すなわち,(1)義民はなみなみならぬすぐれた出自と資質を持っている。(2)過酷な支配下で重い年貢課役に苦しむ多数農民の窮状を見かね,代表者となって出訴する。(3)願いは達成され,人々は恩恵をこうむるが,当人は掟法によって犠牲者の形で処刑される。(4)処刑の直前,その筋から赦免の達しが出るが,使者が到着する直前に刑が執行されてしまう。そこでその死を悼んで手厚く葬り,奉祀もして徳を伝える。(5)あるいは赦免の達しもなく,無慈悲な処刑が行われたあと,祟(たたり)が出てやまないので,これをまつって鎮魂する。この場合には,怨霊伝説や祟神信仰と結びついてさまざまな伝承が形成される。以上の諸点である。これまでに義民顕彰の多く行われた時期として,江戸時代では宝暦・明和期と幕末期,明治以降では自由民権運動高揚期,大正デモクラシー展開期,昭和30年前後の戦後民主化期があげられる。
→義賊 →義民物
執筆者:横山 十四男
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義のために一身を犠牲にしてつくす人。とくに百姓一揆の頭取として処刑された人物をさす。ただし最近では,刑死しなくても義民になった事例が明らかにされている。義民伝承は長い間に親から子へと「御霊」や「農神」として伝えられ,伝承にもとづき筋書きのある物語が作られるようになった。もっとも典型的な義民とされる佐倉惣五郎の物語など,物語の多くは18世紀後半に各地でつくられた。明治期には自由民権運動のなかでさかんに義民顕彰が行われ,義民観が確立した。磔(はりつけ)茂左衛門・松木長操(ちょうそう)・多田加助などが有名。
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…幕府は70年(明和7)4月,全国に高札を立てさせ,そのなかで〈よろしからざる事に百姓大勢申合〉せることを徒党,〈徒党して強いて願い事企〉てることを強訴と規定し,褒賞を約して訴人をすすめた。多数者の行動である強訴では頭取と呼ばれる指導者が活躍し,刑死するとひそかにまつられ,義民となった。大規模な強訴からは,多くの記録や一揆物語が作られた。…
…近世の義民の代表者とされる人物。佐倉宗吾とも呼ばれる。…
…古代社会では天変地異や悪疫流行の原因が御霊であるとみなされ,御霊を鎮めて和霊にした後,神殿の中にまつりこめ,代々崇敬するという経過をたどっている。江戸中期ごろから頻発した一揆の指導者たちは,捕らえられて処刑されたが,死後義民として顕彰されたが,そのなかで神化した事例も多い。これは処刑されたおりに,この世に怨念を残し,そのたたりが,虫害となり稲の凶作をもたらすと信じられたためである(御霊信仰)。…
※「義民」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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