日本大百科全書(ニッポニカ) 「文祢麻呂墓誌」の意味・わかりやすい解説
文祢麻呂墓誌
ふみのねまろのぼし
壬申(じんしん)の乱(672)に将軍として活躍した渡来系の西文(かわちのふみ)氏出身の官人、文祢麻呂の墓誌。1831年(天保2)に現在の奈良県宇陀(うだ)市榛原(はいばら)区八滝の丘陵南斜面に営まれた火葬墓から金銅製外容器に入れた緑色ガラス製骨壺(こつつぼ)とともに出土。墓誌は鋳銅製の短冊形銅板(縦26.2センチメートル、横4.3センチメートル)で、表面に2行34字の銘文を刻み、蓋(ふた)付きの銅箱に納められていた。銘文と正史にみえる記録によると、祢麻呂は舎人(とねり)として大海人(おおあま)皇子の挙兵に参画し、兵を率いて近江(おうみ)進攻に功があったこと、この功によって封戸(ふこ)百戸を賜ったこと、左衛士府督(さえじふのかみ)の要職に任じ、707年(慶雲4)の死去に際しては、壬申年の功により、正四位上の位と賻物(ふもつ)を贈られたことが知られる。国宝。
[大脇 潔]