朝日日本歴史人物事典 「斎藤義竜」の解説
斎藤義竜
生年:大永7(1527)
美濃国(岐阜県)の戦国大名。左京大夫,治部大輔。道三の子。俗説では土岐頼芸の愛妾深芳野が,頼芸の胤を宿してのち道三に嫁して生んだ子で,この出生の因縁が道三,義竜父子の不和の遠因と伝える。母については稲葉良通(一鉄)の妹とする説もある。初め新九郎利尚,のち范可と号す。天文23(1554)年父道三の引退により,家督を継いで稲葉山城主となる。弘治2(1556)年4月長良川畔に道三を討つが,この父子の争いは,道三が明智氏の娘を正室にし,その所生の男子を立てようとしたことが直接の原因という。永禄1(1558)年治部大輔に任官,翌年室町幕府相伴衆に列し,以後たびたび織田信長の美濃侵攻を受けるが,よくこれを撃退。同2年信長の初度の上洛の際には,刺客を派遣したという逸話もある。同3年末,それまで瑞竜寺が有していた美濃禅宗寺院の寺統権を,新寺である伝燈寺の住持別伝に与えたことから,美濃の禅宗界を揺るがす別伝の乱が起こり,その渦中に病死した。その人となりについては,体格,武勇人に優れ,いかつい外見に似ず内心は穎悟明朗で,よく人情を解し,時勢を読むに敏であった。そのため士はよく懐き,民は楽しんだという。その真偽は不詳だが,義竜は宿老制,貫高制の採用や宗教統制策など,父道三時代にはみられなかった戦国大名としての萌芽的諸政策を実施している。
(谷口研語)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報