斎藤義竜(読み)さいとう・よしたつ

朝日日本歴史人物事典 「斎藤義竜」の解説

斎藤義竜

没年永禄4.5.11(1561.6.23)
生年:大永7(1527)
美濃国(岐阜県)の戦国大名。左京大夫,治部大輔。道三の子。俗説では土岐頼芸の愛妾深芳野が,頼芸の胤を宿してのち道三に嫁して生んだ子で,この出生因縁が道三,義竜父子の不和の遠因と伝える。母については稲葉良通(一鉄)の妹とする説もある。初め新九郎利尚,のち范可と号す。天文23(1554)年父道三の引退により,家督を継いで稲葉山城主となる。弘治2(1556)年4月長良川畔に道三を討つが,この父子の争いは,道三が明智氏の娘を正室にし,その所生の男子を立てようとしたことが直接の原因という。永禄1(1558)年治部大輔に任官,翌年室町幕府相伴衆に列し,以後たびたび織田信長の美濃侵攻を受けるが,よくこれを撃退。同2年信長の初度の上洛の際には,刺客を派遣したという逸話もある。同3年末,それまで瑞竜寺が有していた美濃禅宗寺院の寺統権を,新寺である伝燈寺の住持別伝に与えたことから,美濃の禅宗界を揺るがす別伝の乱が起こり,その渦中に病死した。その人となりについては,体格,武勇人に優れ,いかつい外見に似ず内心は穎悟明朗で,よく人情を解し,時勢を読むに敏であった。そのため士はよく懐き,民は楽しんだという。その真偽は不詳だが,義竜は宿老制,貫高制採用や宗教統制策など,父道三時代にはみられなかった戦国大名としての萌芽的諸政策を実施している。

(谷口研語)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斎藤義竜」の解説

斎藤義竜 さいとう-よしたつ

1527-1561 戦国時代の武将。
大永(たいえい)7年生まれ。斎藤道三(どうさん)の子。土岐頼芸(よりなり)の子ともいう。美濃(みの)(岐阜県)稲葉山城(のちの岐阜城)城主。家督争いから弟(道三の実子)を殺し,弘治(こうじ)2年道三を長良川(ながらがわ)河畔で敗死させる。その後,織田信長の侵攻をよくふせいだが,永禄(えいろく)4年5月11日病没。35歳。初名は利尚,高政。通称は新九郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の斎藤義竜の言及

【斎藤道三】より

…戦国時代の武将。藤原規秀,長井新九郎規秀(のりひで),斎藤左近大夫利政などと名のる。道三は法名。父長井新左衛門尉は,京都の妙覚寺の僧で,還俗して美濃守護土岐氏の家臣長井弥二郎に仕え,西村と名のり土岐家中の混乱に乗じ土岐氏の三奉行の一人にまで出世した。道三は父の死により1533年(天文2)家督をつぎ,翌年長井氏の惣領長井藤左衛門尉景弘を倒した。さらに35年土岐頼芸(よりのり)をかついで,美濃守護土岐次郎頼武追放のクーデタに成功し,美濃国土岐家の実権をにぎった。…

※「斎藤義竜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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