オーストリア南東部,シュタイアーマルク州の州都。人口24万0278(2005)。標高365m,ウィーンの南南西130km。ムールMur川の両岸に市街地がひらけ,ハンガリーやスロベニア,クロアチアにいたる交通上の要地。周域の林・鉱業資源を背景に,鉄鋼,車両,製紙,光学器械,印刷などの工業が盛ん。左岸の旧市街には総合大学(1586創設),工科大学,ゴシック風のドーム(1438-62),州会議事堂(1527-67),武具庫(1643-45),オペラ劇場,州立博物館Joanneumなどがある。シュロスベルク(473m)の城跡には,時計台(1561)と鐘楼(1588)が残っている。グラーツは10世紀後半にシュロスベルクに築かれた砦に由来し,その名は小さな砦を意味するスラブ語gradecにちなむ。1130年ころ豪族シュテュービングStübing家が本格的な居城を造営。12世紀後半,市場町と商人定住区が成立。12世紀末オーストリア大公バーベンベルクBabenberg家の手に移り,1233年に都市法を取得。同家断絶後,一時ハンガリーの支配に服したが,79年ハプスブルク家が都市君主となる。1379年以来同家の傍系が治める領邦シュタイアーマルクの主都に昇格。15,16世紀に城塞を固め,ハンガリー,トルコの襲来を切り抜けた。1564-1749年の間,広域の〈奥地オーストリアInnerösterreich〉の主都。17世紀にバロック風建築の盛行が今日の都市景観を決定する。ナポレオン戦争で城は取り壊され,跡地は1840年に公園になった。19世紀後半~20世紀初めには典型的な〈年金生活者の町〉となり,その後市域の拡大と工業化が進んだが,第2次世界大戦で一時中断した。現在はオーストリア第2の都市となっている。
執筆者:木村 豊
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オーストリア南東部、シュタイアーマルク州の州都で、ウィーンに次ぐオーストリア第二の都市。人口22万6244(2001)。アルプスの東縁部にドナウ川の支流ムール川が形成した扇状地上に位置し、標高364メートル。市内、ムール川の東岸に、比高120メートルの高さでそびえるドロマイト(苦灰岩)の丘シュロスベルクSchlossbergは、すでに民族移動の時代(800ころ)にスロベニア人が砦(とりで)を置いた所である。グラーツの名は、スロベニア語で「城」を意味するグラデクGradecに由来する。町の名は、トラウンガウ大公治下の町として1115年に古文書に初めて現れ、1192年バーベンベルク家、さらに1282年ハプスブルク家の領地となった。18世紀なかば、女帝マリア・テレジアの時代には商業都市として栄えたが、ナポレオン軍の進入により、1797年、1805年、1809年の3回にわたって占拠された。1840年以降、鉄道(トリエステ線)の開通もあって、州内の鉄鉱と石炭を基盤に重工業の発達がみられた。工業には車両、機械、金属製品、紙、ガラス、皮革、繊維などみるべきものがある。
町には官公庁のほか、総合大学(1586創立)、工科大学(1827創立)などの教育機関、州立博物館、民俗博物館、劇場、オペラ劇場など文化施設も備えている。町の中心部には旧市域があり、市庁舎、州庁舎、グラーツ王宮、15世紀の大聖堂、17世紀のマウソレウム(皇帝フェルディナンド2世の霊廟(れいびょう))など中世以来各時代のおもかげ、とくに16~17世紀のイタリア建築の影響をしのばせる建造物が多くみられ、1999年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。シュロスベルクの丘は展望のよい公園で、ここには町のシンボルである16世紀の時計塔と鐘楼があり、毎日7時、12時、19時に鐘の音が町中に響き渡る。
[前島郁雄]
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