改訂新版 世界大百科事典 「川中島の戦」の意味・わかりやすい解説
川中島の戦 (かわなかじまのたたかい)
戦国期に甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信とが,北信濃の領有をめぐって,信濃国水内郡川中島で1553年(天文22)から64年(永禄7)の長期にわたって,数度対戦した合戦の総称。まず武田信玄が信濃の旧族である小笠原氏や村上氏,高梨氏らを信濃に攻め,敗れた村上義清らが越後の長尾景虎(上杉謙信)に救援を求めたことから両者の戦いが始まった。
信玄は中南信地域を手中にし,北信からさらに越後をもねらっていた。謙信は,関東管領職に就任したことから頻繁に関東へ出兵していたが,北信への信玄の進出に直面し,それを阻止するために1553年に初めて信濃へ出兵し,両者の対戦が始まる。その後,おもな対戦だけでも5度が数えられるが,小さなものもふくめれば,ほぼ64年まで連年にわたって北信での両者の対決がみられる。
このうちとくに有名なのは,1561年9月に両軍が川中島で対戦したものであり,双方が総力戦を展開し,勝敗が決しかねるほどの激戦になった。俗説ではこの時に,信玄と謙信の一騎打ちがあったように言われているが,その真偽は定かでない。この戦いは初め信玄方が全軍を二軍にわけ,妻女山に陣をしいた謙信を一軍が追いたてて挟撃する作戦(きつつきの戦法)であったが,謙信は早くそれを察知し,八幡原へ移動して,残った信玄軍に攻撃を加えた。そのため武田方は苦戦し,副将の信玄の弟信繁や軍師山本勘介などが戦死した。しかし合戦なかばで武田方の別動隊が戻り,戦況は一変して,上杉軍は敗退する。いずれにしてもこの戦い以後は,信玄がほぼ北信を制圧してしまう。この戦いについで大きな対戦は1555年のもので,両者が川中島をはさんで150日間対決した。この時は駿河の今川義元の調停で和議を結んでいるが,両者ともに上洛西上作戦を意図しながら,この長期の対戦によって兵力を浪費し,上洛の夢を果たせなかった。
執筆者:柴辻 俊六
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報