斎藤高行(読み)さいとう・たかゆき

朝日日本歴史人物事典 「斎藤高行」の解説

斎藤高行

没年:明治27.6.12(1894)
生年:文政2.10.22(1819.12.9)
幕末・明治前期の報徳運動家。磐城国(福島県)相馬藩士斎藤完高の長男。通称粂之助。大原と号した。天保11(1840)年江戸に出て留守書役勤務中に従兄の富田高慶を通じ二宮尊徳を知り,弘化2(1845)年入門。真岡,棹ケ島(下館市),花田(茨城県真壁郡関城町),日光などの仕法を助け,嘉永4(1851)年帰国。相馬藩御仕法掛代官席を命ぜられ,富田高慶の指揮の下ですでに始まっていた開墾,無利息貸付などの難村復興仕法に尽力,安政3(1856)年からは高慶に代わって仕法の中心人物となった。維新後は相馬興復局総裁・少参事に補せられたが固辞して受けず,居村で無利息金貸付による仕法を施行するとともに,報徳教義の体系化に努めた。著書の仕法の綱要を記した『報徳外記』(1854)と尊徳の談話を編集した『二宮先生語録』(1903)は報徳思想解説書として広く普及した。<参考文献>佐藤弘毅編『斎藤高行先生事歴』

(海野福寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「斎藤高行」の意味・わかりやすい解説

斎藤高行
さいとうたかゆき
(1819―1894)

陸奥(むつ)国(福島県)相馬(そうま)(中村)藩の農政家。二宮尊徳(にのみやそんとく)門下の四天王、相馬藩士斎藤完高(さだたか)の長子、通称粂之助(くめのすけ)、大原・伯順と号した。1840年(天保11)以来、江戸藩邸に勤仕中、45年(弘化2)尊徳の塾に入る。51年(嘉永4)帰藩し、初め富田高慶(とみたたかよし)の指揮のもと、相馬藩に二宮仕法を実施、のち高行が指導の任にあたった。維新後、興復社副社長。『報徳外記』『二宮先生語録』などの著書がある。

誉田 宏]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斎藤高行」の解説

斎藤高行 さいとう-たかゆき

1819-1894 江戸後期-明治時代の農政家。
文政2年10月22日生まれ。陸奥(むつ)中村藩(福島県)藩士。二宮尊徳の高弟。嘉永(かえい)4年から叔父富田高慶(たかよし)をたすけ,中村藩領で報徳仕法を指導した。維新後,興復社,相馬報徳社を設立。「報徳外記」「二宮先生語録」を編集した。明治27年6月12日死去。76歳。通称は粂之助(くめのすけ)。

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