新治郷
にいはりごう
「和名抄」に「新治」と記され、訓を欠く。「常陸国風土記」新治郡の項に「新治の里」とみえ、また「続日本紀」神護景雲元年(七六七)三月二六日条に「新治郡大領(中略)新治直子公」、延暦九年(七九〇)一二月一九日条に「新治郡大領(中略)新治直大直」の人名が記される。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、今ノ真壁郡古郡村以西ノ地ナリ、蓋シ古郡ヲ以テ名トスルモノ、郡家ノアリシ所ナレバナリ」とあり、比定地は定かでないが、郷域は現真壁郡協和町古郡・久地楽・門井・蓮沼・向川澄・井出蛯沢・横塚、同郡大和村高森、同郡明野町内淀・村田、下館市川連・茂田・深見・徳持・大塚の一帯とされる。
新治郷
にいはりごう
「和名抄」高山寺本は新沼郷とするが、東急本その他によって新治郷が正しいと考える。諸本ともに訓注はないが、新治は新墾に通じ、「にいはり」または「あらき」と読む。「日本地理志料」はこれにより「郡に荒本村あり。疑うらくは、荒木本郷の転か」として、荒本・中野・本庄・箕輪の諸邑(現東大阪市)の地を郷域にあてている。奈良時代にすでにこの地域まで河内湖(新開池)の干拓が進んでいたか疑問であるが、郷名は河内湖の開拓によって生れた土地を意味すると思われ、およそは右の説に従ってよかろう。
新治郷
にいはりごう
「和名抄」高山寺本には「新治」とあるが、刊本は治を沼に作る。両本とも訓を欠くが、常陸国新治郡の例では刊本に「爾比波里」と訓ずる。
古代の新治郷については他の史料にみえず不明だが、郷域内と推定される江戸時代の新治村(現中郡峰山町)域には八基の古墳があり、また横穴八基も発見されている。その名からみて、古く開発された土地であったと思われる。
中世の丹後国田数帳には、
<資料は省略されています>
とみえる。また中世末の丹後国御檀家帳にも「にんはり 新治殿 御一家也、城主也、いまは石川殿の御しそくもたせられ候」と記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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