常陸国(読み)ヒタチノクニ

デジタル大辞泉 「常陸国」の意味・読み・例文・類語

ひたち‐の‐くに【常陸国】

常陸

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日本歴史地名大系 「常陸国」の解説

常陸国
ひたちのくに

東は海に臨み、西は下野国、北は陸奥国、南は下総国。「常陸国風土記」は国成立以前、相摸の足柄の岳坂あしがらのやまさか以東はすべて我姫あづまの国といい、常陸といわず「新治にひばり筑波つくは茨城うばらき那賀なか久慈くじ多珂たかの国と称ひ、各、造・別を遣はして」おさめさせたといい、孝徳天皇の世に高向臣・中臣幡織田連らが派遣されて我姫が八国に分けられ、常陸国が成立したと記す。国名の起源については、従来の道路が途中に海や河の渡しがなく、郡郷の境、山河の峰谷に相続いているので、「直通ひたみち」であるという意味に由来するとしている。また倭武天皇(日本武尊)が新治の県で清い泉に衣の袖をたらしてぬらしたという故事をあげ、歌に「衣袖漬ころもでひたちの国」の文句もあるとして、英雄に結び付けた地名説話を記している。国名起源説話について近世以来様様の論議があるが、広く東北地方を「日高見国」とよびそこへ通う路、つまり日高見路が「ひたち」となり、常陸の字が当てられたとする説が有力視されている。「常陸国風土記」はさらに「それ常陸の国は、堺は是広大く、地も亦はろかにして、土壌も沃墳え、原野も肥衍えて、墾発く処なり。海山の利ありて、人々自得に、家々足饒へり」などと、国土について賛美する。

古代

国の成立は大化改新後の国郡制実施による。「日本書紀」景行紀の日本武尊東征説話に「常陸」の名がみえるのは、後世の編纂時に当てたものであろう。同書天智天皇七年の条に、蘇我赤兄大臣の女「常陸女ひたちのいらつめ」が山辺皇女を産んだことが記され、以後、国名は諸書に散見する。天平一五年(七四三)の白布墨書(正倉院御物)には、常陸国那賀郡の国郡名がみえ、字面に「常陸国印」が認められる。

大化の国郡制では、大化(六四五―六五〇)以前の新治・筑波・茨城・なか久自くじたかの六国(旧事本紀)のうち、仲は那賀、久自は久慈、高は多珂たかと改まり、それに香島かしまが加わって七評(郡)となり、常陸国の管轄下に入った。この七評は白雉年間(六五〇―六五五)一二評になったが、和銅年間(七〇八―七一五)評は郡となり、信太しだ河内かつち・筑波・白壁しらかべ・新治・茨城・行方なめかた・香島・那賀・久慈・多珂の一一郡となった。白壁郡はのち真壁まかべ郡、香島郡は鹿島郡となったが、郡名呼称は古代末から中世に郡名の私称が行われた以外は、明治二九年(一八九六)の新郡区編制まで変わらなかった(ただし郡域に変動はあった)

国府は現石岡市に置かれ、近くには京都の神祇官に相当するものとして国府の宮(のちの常陸総社)が建てられ、国分(僧)寺と国分尼寺の官寺が建立された。

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改訂新版 世界大百科事典 「常陸国」の意味・わかりやすい解説

常陸国 (ひたちのくに)

旧国名。常州。現在の茨城県の大部分(下総国に属する南西部を除く。なお,北西部は陸奥国白河郡依上(よりかみ)郷(保)に属したが,太閤検地以後常陸国久慈郡に編入された)を占める。

東海道に属する大国(《延喜式》)。古く〈常道〉と表記されたこともある。国府は現在の石岡市石岡に置かれ(石岡小学校付近に国庁跡を比定する説が有力),国分寺,国分尼寺,総社も同市にあった。大化前代には新治(にいはり),筑波(つくば),茨城(うばらき),仲(なか),久自(くじ),高(たか)の6国造が置かれた地域で,また大和朝廷によって宇治部,額田部(ぬかたべ),八田部,多治比部,刑部(おさかべ),藤原部,孔王部(あなほべ),日下部(くさかべ)など多くの部が設定された。遅くとも4世紀末ごろまでには大和政権の勢力圏に入っていたとみられる。国名の起源,設定の時期については諸説があるが,確かではない。大化改新後,国造のクニがコホリ(評)に改編され,新設の評(郡)も加わり,《延喜式》の新治,真壁(まかべ),筑波,河内(かつち),信太(しだ),茨城,行方(なめかた),鹿島(かしま),那珂(なか),久慈(くじ),多珂(たか)の11郡の制が確立した。《常陸国風土記》に〈それ常陸の国は堺は是れ広大,地もまた緬邈(はるか)にして,土壌沃墳,原野肥衍,墾発の処,山海の利,人々自得,家々足饒(にぎわ)えり〉とあり,広く肥沃な農地に恵まれた豊かな地域で,奈良時代には開発も進んだとみられる。また地理的に陸奥に近いところから,東北地方の開拓,蝦夷対策に関し,人的・物的な面で基地としての役割を果たした。《和名抄》によれば11郡の郷数は152郷,田積4万0092町余(陸奥についで全国2位)で,有数の大国であった。《延喜式》にみる官稲出挙(すいこ)の量は184万6000束で,全国1位を占めた。奈良時代には藤原宇合(うまかい),百済敬福(くだらのけいふく),石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ),紀船守(きのふなもり)など有力な人物が国司に任命され,特異な作風の万葉歌人高橋虫麻呂もこの地に在任したことがある。

 《延喜式》神名帳には27社(28座)の官社(式内社)が登載され,中に鹿島神宮,大洗磯前(おおあらいいそざき)薬師菩薩明神社(大洗磯前神社),静(しず)神社,筑波神社,吉田神社,酒烈(さかつら)磯前薬師菩薩神社(現,酒烈磯前神社),稲田神社の7座の名神大社が含まれるが,この数は坂東諸国の中できわだっている。また国分寺,国分尼寺のほかに寺院も各地に営まれ,新治,筑波,真壁,那賀,久慈,多珂などの郡衙の付近に郡寺ともいうべき古代寺院が存した。826年(天長3)上総,上野と並んで親王任国となり,遥任(ようにん)の国守(太守)に親王が任ぜられることになった。桓武天皇の曾孫高望(たかもち)王(のち賜姓により平高望となる。桓武平氏の祖)が9世紀の末ごろ上総介として赴任し,そのまま土着して東国地方に勢力を植えつけ,その子国香(くにか)は常陸大掾(だいじよう),鎮守府将軍となってこの地方に力を伸ばしたが,935-940年(承平5-天慶3)一族の内紛がこじれて,下総,常陸を主たる舞台とする平将門(まさかど)の乱が起こり,京都の貴族たちに衝撃を与えた。中央から遠く隔たったこの地方では,私営田の開発・経営,荘園の発達,私的武力の成長,豪族の有力化など,次の時代への動きが急速に展開した。
執筆者:

常陸国でも12世紀になると,荘園公領制が明確にその姿を現してくる。北部では,令制の多珂,久慈,那珂3郡は,多珂,久慈東,久慈西,佐都東,佐都西,那珂東,那珂西の7郡に分割され,総称して〈奥七郡〉と呼ばれた。7郡のうち北部5郡は佐竹氏一族の支配下にあったとみられる。残りの那珂東西両郡には大中臣(おおなかとみ)姓那珂氏の一族が蟠踞(ばんきよ)していた。南部は古くから常陸平氏一族の支配下にあり,おそらくは,12世紀後半南野牧の自立,小鶴(こつる)荘の分出ののち南郡・北郡に分かれた茨城郡,鹿島・行方両郡および,令制の那珂郡から早くに分出した吉田郡などもその勢力のもとにあった。常陸平氏の嫡流は,国衙の大掾の職を世襲して大掾氏を称し,茨城,筑波,信太,真壁郡などを支配してきたが,その支配地の多くを中央の権門勢家に寄進し,荘園化を進めた。その中には茨城郡内の小鶴荘(摂関家領),筑波郡の一部から真壁郡へかけての南野牧,村田荘,田中荘,下妻荘(いずれも八条院領)などがある。筑波郡は北条,南条に分かれ,このうち南条は片穂(かたほ)荘(日吉社領)となる。信太郡は東条,西条に分かれ,西条は信太荘(八条院領)となる。常陸国西部のうち下妻荘を除く真壁郡東部は常陸平氏の庶流真壁氏の勢力下にあった。新治郡は伊勢御厨(みくりや)小栗保を分出したのち,東郡,中郡,西郡に分かれた。東郡には秀郷(ひでさと)流藤原氏の宇都宮氏が進出,中郡は中郡(ちゆうぐん)荘(蓮華王院領)となり,大中臣姓の中郡氏が支配していた。西郡はさらに北条(伊佐郡),南条(関郡)に分かれ,山蔭(やまかげ)流藤原氏の伊佐氏(伊達氏),秀郷流藤原氏の関氏がいた。

1180年(治承4)源頼朝は佐竹氏を攻め,これを制圧する。佐竹氏支配の常陸北部は没収され,頼朝側近の宇佐美,二階堂,伊賀氏らの御家人に与えられた。那珂両郡を引き続き支配してきた大中臣姓那珂氏の当主実久は,頼朝の信頼を得て本領那珂両郡のほか,丹波,摂津,山城の守護人となり,京都守護職の任にも就いた。南部を掌握していた常陸平氏一族は,頼朝に反抗こそしなかったが,積極的に協力もしなかった。このため同氏の勢力は鎌倉時代の初めから徐々に退潮をみせ,かわって下野の豪族宇都宮氏の庶流や下河辺(しもこうべ)氏(秀郷流藤原氏)の一族が進出を始める。83年(寿永2)の志(信)田義広(源義広)の乱ののち,国府を含む南郡の惣地頭職は下河辺行平に与えられ,また常陸守護には八田知家が任じられた。89年(文治5)の奥州藤原氏の征討,93年(建久4)の常陸大掾多気(たけ)義幹の没落,北条氏と近い吉田郡内を本拠としていた馬場大掾氏の台頭と八田氏(小田(おだ)氏)の筑波山周辺の地域への進出など,新旧勢力の交替は著しい。しかし最も注目すべきは,北条氏得宗勢力のこの国への進出である。1213年(建保1)の和田合戦,21年(承久3)の承久の乱,47年(宝治1)の宝治合戦,85年(弘安8)の弘安合戦霜月騒動)といった政治の変動によって,従来常陸国に所領を有してきた御家人の多くは没落していった。例を挙げれば,中郡荘を支配し幕府内部でも重んじられてきた中郡氏は13世紀半ば,荘の預所(あずかりどころ)と紛争を起こし所領を没収され,その跡を幕府の要人安達(あだち)氏が得るが,同氏も霜月騒動で没落,中郡荘は得宗領化される。常陸国における得宗領の分布をみると,陸奥方面への通路である太平洋沿いの地域,久慈川沿いに陸奥へ至る地域の一部,下野,下総の国境に近い国の西部の地域など,交通の要衝をおさえる形が顕著である。鎌倉時代末期に北条氏領と判明する面積は,国内総田数の22.7%を占める。

南北朝時代になると,これらの旧得宗領を中心に,常陸は東国における南朝方の根拠地のひとつとなる。その理由として,得宗領が建武新政府に没収され,南朝方の諸将の所領となること,かつて北条氏に所領を奪われた在地勢力の南朝方への服属,などが考えられる。こうした中で,鎌倉初期以来沈淪(ちんりん)の淵にあった佐竹氏の勢力の回復が目だつ。当主佐竹貞義をはじめとする一族は同じ源氏の足利尊氏に密着し,諸方の戦いで活躍した。貞義は1335年(建武2),後醍醐天皇の政府を無視し新たに鎌倉で政務を執行しはじめた尊氏によって常陸守護に任じられた。佐竹氏は以後,南北朝・室町時代を通じて,この職に就く。後醍醐天皇と足利尊氏の分裂以後43年(興国4・康永2)までの8年間,常陸各地では南軍と北軍との間で激しい戦いが展開される。南軍の勢力圏は霞ヶ浦西南岸の地帯であり,有力武将の小田治久,関宗祐,下妻政泰などに加えて,吉野から下向した春日顕国,広橋経泰,北畠親房などの活躍が目だつ。対する北軍としては佐竹一族,常陸平氏庶流で鹿島郡を支配してきた鹿島氏,その庶子家の烟田(かまた)氏,真壁郡の真壁氏,小田氏の庶流宍戸(ししど)氏,南郡内の下河辺一族などを挙げられる。ただし,所領の拡大・保全という在地豪族特有の論理と要求により,惣領と庶子が両陣営に分かれたり,同じ武将がはじめは南軍に属し,のちには北軍に従うといった傾向もみられる。1341年(興国2・暦応4)南軍の小田治久は北軍の高師冬(こうのもろふゆ)に降伏,43年(興国4・康永2)11月,南軍の最後の拠点であった関城大宝(だいほう)城が落ち,常陸における南北朝の内乱は終わる。これによって小田氏をはじめ常陸南西部の勢力は衰え,足利氏に近い高,上杉,佐竹などの諸勢力が発展してくる。

観応の擾乱(じようらん),小山氏の乱(1380-82)などののち,常陸に大きな影響をもたらしたのは1416年(応永23)の上杉禅秀の乱である。常陸の諸豪族のうち禅秀に味方した者には大掾満幹,小田持家,佐竹支族の山入与義(やまいりともよし)らがおり,鎌倉公方足利持氏の側には,佐竹本宗の義憲(義人)がいる。乱の結果,小田,大掾氏らの勢力はますます衰退,とくに大掾氏は応永(1394-1428)の末年,新興勢力の江戸通房に本拠の水戸城を奪われ,府中(現,石岡市)へ封じ込められることとなる。

 また,応永末年から室町幕府と鎌倉府との対立は激化し,常陸でもその影響が著しくなる。山入氏や,大掾支族で常陸の西部小栗保に拠った小栗氏,真壁氏などは,幕府の意を受けて鎌倉府に反抗し続ける。とくに中郡荘は南北朝期に足利尊氏に与えられ,鎌倉府支配領域内の幕府直轄領として存在しており,この後の永享の乱(1438),結城合戦(1440)などの際,常陸の西部がひとつの抗争の場となる背景をもっていた。15世紀,このように続いた戦乱によって,常陸の諸勢力の浮沈も著しかった。

そのような中から,新しく勢力を蓄えて登場する江戸氏,同族山入氏との内紛に苦慮しつつも勢力を保持し続けてきた佐竹氏,府中にあってかろうじて国の中央部を支配してきた大掾氏,鹿島・行方両郡に地盤を保ち続けてきた常陸平氏庶流の諸氏,筑波南麓を中心に依然存在し続ける小田氏などが,戦国期の常陸国の動向に関係する勢力である。加えて下総の結城氏の戦国大名化の動きも,常陸国へ大きな影響を及ぼしてくる。佐竹義舜は1504年(永正1)宿敵山入氏義を滅ぼして,100年にわたる一族間の内紛に決着をつけ,戦国大名化への第一歩を踏み出した。下総の結城政勝は56年(弘治2)小田原の北条氏康の力を背景に常陸へ進出,小田氏を襲って所領を奪い,常陸西部および南部には同氏の勢力が浸透する。16世紀後半の常陸国では,奥州伊達氏の南奥統一と関東への威圧,小田原北条氏の北進と関東統一への志向の間にあって,みずからの勢力の拡大・保全を図る在地勢力の動向が注目される。とくに顕著なのは父祖以来の常陸北部での勢力を基本とし,常陸一国はもとより南奥にまで勢力拡大を図る佐竹氏の動きである。当主の佐竹義重は1562年(永禄5)以後,常陸,下野の諸大名や東国の諸大名と同盟を結び,北の伊達政宗,東の北条氏康と対峙する。またこの当時すでに中央の統一権力となった織田信長豊臣秀吉や,甲斐の武田氏,越後の上杉氏らとも結んで勢力拡大を図る。89年(天正17)父義重のあとを継いだ佐竹義宣(よしのぶ)は翌年8月,後北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げた豊臣秀吉から常陸一国および下野の一部の直接・間接の支配を承認された。一方南部の小田氏,大掾氏,中央部の江戸氏らは後北条氏と親しく,秀吉への服属が遅れた。同年12月,佐竹義宣は水戸城の江戸重通を追い,余勢をかって府中の大掾清幹を殺す。91年には鹿島,行方の大掾系の小領主たちも佐竹氏によって滅ぼされた。こうした一連の佐竹氏の領国統一への動きは,秀吉の承認のもとに行われたものといえる。
執筆者:

小田原城陥落後,佐竹義重・義宣父子は秀吉の権力を背景に水戸城の江戸氏を討ってそのあとへ本拠を移し威勢を誇った。ついに後北条氏に荷担した大掾(府中),小田(小田),菅谷(土浦)などの諸氏は没落した。佐竹氏に次ぐ勢力を保持していた結城晴朝(下総結城城主)も秀吉の養子秀康(実は徳川家康次男)を養嗣子として自家の安全を図り,その領地は土浦方面を含む10万石余であった。このほか水谷(みずのや)(下館),多賀谷(たがや)(下妻)などの諸氏がいたが,佐竹・結城両氏に比してはるかに劣勢であった。太閤検地の結果,佐竹氏は54万5700余石の領地支配を認められ,佐竹・結城両氏を中心とする豊臣政権下の支配秩序が確立した。ところが関ヶ原の戦のとき,佐竹氏が石田方に味方したとの理由で,その2年後領地を21万石余に減じられて秋田へ移封,多賀谷氏(6万石)も同じ理由で領地を没収された。一方,戦功を認められた結城氏は一躍67万石の大名となったが越前北ノ庄に移され,新しい徳川体制のもとで中世以来の大名は水谷氏を除き常陸から一掃され,その水谷氏も1639年(寛永16)には備中へ去った。江戸幕府は旧勢力を一掃したあとへ徳川一門か譜代の大名を多く配置する政策をとり,とくに佐竹氏のあとへ次々と家康の子を城主に封じ,3度目の徳川頼房以来水戸藩は三家の一つとなった。水戸藩ははじめ25万石,22年(元和8)28万石,1701年(元禄14)35万石となり廃藩置県に及ぶ。

 1813年(文化10)の時点における諸藩を挙げると,水戸藩35万石,土浦藩9万5000石,笠間藩8万石,下妻藩1万石,下館藩2万石,府中藩2万石,谷田部(やたべ)藩1万6000石,宍戸藩1万石,牛久(うしく)藩1万石,麻生(あそう)藩1万石である。この10藩は廃藩まで存続したが,一円支配のところは少なく,常陸国内はもとより国外に飛地をもつ藩もあり,国外に城や陣屋をもつ大名で国内に飛地をもつものもあった。これら大名の領地以外に南部,西部には天領・旗本領が多く,筑波山麓や霞ヶ浦南岸地域,鹿島郡にはとくに多かった。常陸の大名で外様は麻生と谷田部2藩にすぎず,他は三家水戸藩のほか家門ないし譜代であり,かつ天領・旗本領が多かったことは,この地が江戸に近く政治上重要と考えられていたためである。なお,明治維新後きわめて短期間ながら,松岡,松川,志筑,竜ヶ崎の4藩が取り立てられている。

18世紀に入るころから諸藩の財政難が目だちはじめ,水戸藩のような大藩さえ宝永年間(1704-11)はじめての藩政改革を実施した。しかしこれが農民の大一揆を引き起こして失敗して以降,財政難は慢性化し,それは必然的に藩士の困窮をもたらした。農村は,農民の過大な諸役負担,貨幣経済の浸透,天災,飢饉によって人口が減少し,耕地が荒廃して藩の収入は減少した。一方在郷商人の活動が活発化し,従来の城下町中心の流通機構に変化が生じて,この面での藩の統制力も弱まった。まして中小諸藩の財政難はより深刻であった。窮乏した農民は各地に一揆を起こし,水戸領太田鋳銭座一揆,牛久領助郷反対一揆など,江戸時代を通じての一揆は100件を超えるとみられる。

 貨幣経済が発達し交通が開けると商品作物の生産が盛んとなり,水戸領内の和紙,こんにゃく,タバコ,土浦領内の灯心用イグサなどはひろくその名を知られた特産物である。常陸の街道としては脇街道ながら水戸街道(江戸街道)が最も重要で,取手,牛久,土浦,長岡などに宿駅があった。水戸から浜通り,勿来(なこそ)関址を経て奥州に通ずるのは岩城(いわき)街道で,このほか南郷,那須,結城・宇都宮,飯沼などの脇街道が縦横に走っていた。水上交通では太平洋に面する平潟(現,北茨城市)や那珂湊(なかみなと)が奥州諸藩の物資を江戸に輸送する際の寄港地として栄えた。奥州方面からの物資は,那珂湊から涸(ひ)沼,北浦などを利用して川船や陸路によって運ばれ,潮来(いたこ)を中継地として利根川に出,下総関宿までさかのぼり,江戸川を下るコースが最も多く利用された。

江戸時代後期から幕末にかけては,藩政の再編強化を目ざして政治改革を実施した藩が多い。藩主徳川斉昭(なりあき)が断行した水戸藩の天保改革は幕府や諸藩に先がけて実施され,天下視聴の的となっただけでなく,斉昭はじめ改革派の藤田東湖,会沢正志斎らの著書,言動が対外的危機意識の高揚する中で現状打開の指針のように考えられて,尊攘志士たちの注目するところとなった。しかし改革推進の過程で門閥派との軋轢(あつれき)を深め,藩内の対立抗争を激化させていく。1844年(弘化1)斉昭が致仕を命ぜられてから,安政の大獄,桜田門外の変,さらに坂下門外の変を経てしだいに熾烈となった水戸藩尊攘派の運動は,64年(元治1)の筑波山挙兵で頂点に達した。天狗党の乱は水戸藩士民だけでなく常総各地の士民をも巻き込んで展開し,筑波勢の鎮圧には幕命を受けた土浦,下妻,下館,笠間などの諸藩も加わって常総地方を混乱の極に陥れた。

水戸藩が編纂した《大日本史》397巻は,中国の正史の体裁である紀伝体により記述した史書として日本最初のもので,徳川光圀が修史事業に着手して以来250年に及ぶ歳月を費やし,1906年(明治39)に完成した。編纂に当たった学者では,前期の安積澹泊(あさかたんぱく),佐々十竹,栗山潜鋒三宅観瀾,後期の藤田幽谷,藤田東湖,会沢正志斎らが名高い。会沢の《新論》,東湖の《弘道館記述義》の2著は,水戸学の代表的文献で,水戸藩天保改革の思想的裏づけとなり,また幕末尊攘運動の指導理念ともなった。水戸藩校弘道館は,天保改革の一環として設立されたもので,文武医にわたる総合的な教育が行われ,全国最大の規模をもつ。このほかでは土浦藩郁文館,笠間藩時習館などが知られている。水戸藩では藩校以外に領内各地に15の郷校を設けて農村有志の教育を行った。地理学の分野では,多賀郡赤浜村(現,高萩市)出身の長久保赤水が作成した《日本輿地路程全図》,土浦藩士山村才助の《訂正増訳采覧異言》,土浦の町人学者沼尻墨僊の考案になる傘式地球儀などが注目される。探検家として有名な間宮林蔵は筑波郡上平柳村(現つくばみらい市,旧伊奈村)の出身である。

 江戸時代後期には個人の力による郷土史,地誌の編纂が盛んで多くの成果を挙げた。中でも中山信名の《新編常陸国誌》,宮本茶村の《常陸誌料郡郷考》,高倉胤明の《水府地理温古録》,赤松宗旦の《利根川図志》などが知られている。医学では水戸藩に原南陽・本間玄調,土浦藩に辻元順・安村江痴らが出,谷田部藩医広瀬周伯は《図会蘭説三才窺管》を著し,天文学,地学,医学の研究の概要をまとめて出版した。谷田部村名主飯塚伊賀七は,独力で木製和時計,測量器,脱穀機などを考案し,からくり伊賀七の異名をとった。常陸の国学は近隣諸国に比して劣勢であったが,《検田考証》などを著した土浦の町人国学者色川三中の業績は逸することができない。石門心学は,寛政期(1789-1801)から盛んとなり,下館城下に有隣舎,土浦城下に孝準舎,小田村(現つくば市,旧筑波町)に尽心舎,水戸城下に三省舎,太田村(現,常陸太田市)に孝友舎などの講舎が建ち,江戸方面から講師も巡回して一時教勢を広げたが,幕末期には衰微した。庶民教育のための私塾,寺子屋は,天保期(1830-44)以降幕末にかけてかなり普及した。茨城郡成沢村(現,水戸市)の加倉井砂山が営んだ私塾日新塾には遠近各地から来て学ぶ者が多く,門人には藤田小四郎,斎藤監物(けんもつ)らやがて幕末尊攘志士として活動する者も含まれていた。土浦の町人学者沼尻墨僊とその子墨潭が営んだ寺子屋天章堂の入門者総数は,1803年(享和3)の開設から71年に至る69年間で889人に達した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「常陸国」の意味・わかりやすい解説

常陸国
ひたちのくに

廃藩置県前の旧国名。大化改新(645)後まもないころに成立した国。現在の茨城県域の北・東部にあたり、関東地方でも北東部に位置する。東は太平洋、西は下野(しもつけ)・下総(しもうさ)両国、北は陸奥(むつ)国に接する。国域の北半分は久慈(くじ)川・那珂(なか)川流域の平地と、阿武隈(あぶくま)山地南部・八溝(やみぞ)山地を中心とする山地で、南半分は霞(かすみ)ヶ浦・北浦に代表される農漁村地帯である。初め常道国(ひたみちのくに)といい、のち常陸国となる。国名の由来は『常陸国風土記(ふどき)』によれば、直通(ひたみち)説と、衣袖漬(ころもでのひたち)説とがあるが、東北地方が道奥(みちのく)といわれたときは常道とよばれ、陸奥とよばれると常陸となる。道の奥にじかに接する国という意味で国名がおこったと考えられる。大化改新までは新治(にいはり)、筑波(つくば)、茨城(むばらき)、那賀(なか)、久慈、多珂(たか)に分かれていたが、改新後の国郡制の施行によって常陸国となり、国内は新治、筑波、白壁(しらかべ)(真壁(まかべ))、河内(かうち)、行方(なめかた)、香島(かしま)(鹿島)、信太(しだ)、茨城、那賀(那珂)、久慈、多珂(多賀)の11郡となった。

 古代にあって常陸国は、東北経略の基地として重要視され、奈良時代以降、武功に優れたり、陸奥の情勢に通じた有能な人物が国司に任命され、826年(天長3)には上総(かずさ)・上野(こうずけ)両国とともに親王任国となった。このころ国司として下向してきた源氏・平氏・藤原氏の分流は、土着して未開地を開発し、下人や農民などを従えて土豪として成長した。10世紀なかばに乱を起こした平将門(まさかど)はその一人である。将門の乱後、平国香(くにか)の子孫が大掾(だいじょう)氏を称して繁栄し、また源義光(よしみつ)の子孫佐竹(さたけ)氏も勢力を有した。

 平安末期には郡域の変更、郡の私称が行われたが、北半部は佐竹氏が、南半部は常陸平氏一族の支配下となる。鎌倉期になると、これが、源氏の流れをくむ佐竹氏、藤原氏の流れをくむ笠間(かさま)・小田・関・田中・宍戸(ししど)・伊佐氏、平氏の流れをくむ常陸大掾・吉田・石川・真壁・小栗・下妻(しもつま)氏の3勢力となる。

 南北朝の前期には北部の瓜連(うりづら)城などを中心に、後期には南部の小田・関・大宝城などで、北朝方の佐竹・烟田(かまた)・行方・鹿島諸氏と、南朝方の那珂・小田・関・下妻・真壁・笠間諸氏が交戦したが、やがて佐竹氏が進出した。佐竹氏は豊臣(とよとみ)秀吉の小田原征伐のときには、秀吉に味方して国の大半を領有した。

 関ヶ原の戦い後、佐竹氏は秋田へ国替になり、その後には徳川家康の実子が配され、1609年(慶長14)には御三家(ごさんけ)水戸藩が成立した。水戸藩では2代藩主光圀(みつくに)が『大日本史』編纂(へんさん)のため、全国から多くの学者を招いたが、これが18世紀末からふたたび盛んとなり、水戸学を形成して注目された。国内はおおむね北部が水戸藩領でまとまり、西部が小藩領と天領・旗本領、南部が天領・旗本領とに細分されていた。総石高(こくだか)と村数は元禄(げんろく)期90万3778石余、1677村、天保(てんぽう)期100万5707石余、1723村である。特産物には、結城紬(ゆうきつむぎ)をはじめ西ノ内(にしのうち)紙、水府煙草(すいふたばこ)、久慈のこんにゃくなどが全国的に知られた。明治維新の際、水戸藩のほか、笠間、下館(しもだて)、下妻、土浦(つちうら)など13藩があったが、新治県、茨城県に統合され、1875年(明治8)さらに茨城県に統一された。

[佐久間好雄]

『中山信名編、栗田寛補『新編常陸国誌』(復刻・1981・常陸書房)』『塙作楽編『常陸の歴史』(1977・講談社)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「常陸国」の解説

ひたちのくに【常陸国】

現在の茨城県のほぼ全域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに石岡(いしおか)市におかれていた。平安時代前期に桓武(かんむ)平氏が土着。中期には下総(しもうさ)国と当地を舞台に平将門(たいらのまさかど)の乱が起きた。鎌倉時代は佐竹氏、小田氏、大掾(だいじょう)氏を代表とする3勢力があり、南北朝時代の戦いを経て佐竹氏が一国を支配。佐竹氏は関ヶ原の戦いのあと秋田に移封され、そのあとに徳川家康(とくがわいえやす)の11男頼房(よりふさ)が入り、御三家の一つ水戸(みと)徳川家が支配した。ほかに10の小藩や幕府直轄領、旗本領もあった。2代藩主徳川光圀(みつくに)が『大日本史』を編纂した際、全国から多くの学者を集め、その流れから生まれた水戸学は幕末日本に大きな影響を与えた。1871年(明治4)の廃藩置県により茨城県と新治(にいはり)県となり、1875年(明治8)に新治県は千葉県と茨城県に分割編入された。◇常州(じょうしゅう)ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「常陸国」の意味・わかりやすい解説

常陸国
ひたちのくに

現在の茨城県。東海道の一国。大国。『常陸国風土記』によれば,もと新治 (にいばり) ,筑波,那賀 (なか) ,久慈,多珂 (たか) の国があったといい,『旧事本紀』にも国造として記されている。「ひたち」とは太平洋の日の出に対しての名称で「日立ち」であり,「日向 (ひむか) 」に通じるものであろう。国名としては大化に始るものとみられる。『常陸国風土記』は,この国の地誌として多くの神話,伝説を伝えている。国府,国分寺ともに石岡市にあり,一宮は鹿島神宮。『延喜式』には新治,真壁,筑波などの 11郡,『和名抄』には 153郷,田4万 92町を載せている。平安時代には大国として重視され,天長3 (826) 年には親王任国と定められ,守は太守と称された。鎌倉時代には源義光の子孫である佐竹氏がこの国の北部を,南部には八田氏 (のちに小田氏) ,中部には大掾氏の支配が続いた。室町時代には佐竹氏が守護となり,小田氏,大掾氏を滅ぼして支配を広げたが,関ヶ原の戦い後秋田に移封され,そのあとは徳川家康の子頼房が 35万石で水戸藩を開き,御三家の一つとして幕政に重きをなした。ほかに土浦,笠間,牛久,下館などの諸藩と天領,旗本領もあった。明治4 (1871) 年の廃藩置県後,茨城県と新治県になり,さらに 1875年に茨城県に統合された。

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百科事典マイペディア 「常陸国」の意味・わかりやすい解説

常陸国【ひたちのくに】

旧国名。常州とも。東海道の一国。現在の茨城県の大半。《延喜式》に大国,11郡。国府は現在の石岡市。平安以後,国司の守(かみ)は親王の遥任(ようにん),介(すけ)として源氏の佐竹氏や平氏の大掾(だいじょう)氏らが土着。戦国期には佐竹氏が支配。近世,水戸藩御三家の一つとなった。→鹿島神宮古河藩
→関連項目茨城[県]関東地方信太荘土浦藩

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「常陸国」の解説

常陸国
ひたちのくに

東海道の国。現在の茨城県の大部分。「延喜式」の等級は大国。「和名抄」では新治(にいはり)・真壁・筑波(つくば)・河内・信太(しだ)・茨城・行方(なめかた)・鹿島・那珂・久慈・多珂の11郡からなる。国府・国分寺・国分尼寺は茨城郡(現,石岡市)におかれた。一宮は鹿島神宮(現,鹿嶋市)。「和名抄」所載田数は4万92町余。「延喜式」では調庸は布・帛・絁(あしぎぬ)など,中男作物として紅花・茜(あかね)や鰒(あわび)などを定める。「常陸国風土記」によると,もと新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の6国造が存し,孝徳朝に評(ひょう)となり,陸奥国石城(いわき)郡も当初は当国に含まれた。国名は往来が陸路のみの直通(ひたみち)であることに由来するという。826年(天長3)以降は親王任国。承平・天慶の乱では国府が平将門に襲撃された。鎌倉時代には小田氏・宍戸(ししど)氏が守護をつとめ,常陸大掾氏が勢力をのばし,室町時代に守護佐竹氏の一国支配が確立。佐竹氏は関ケ原の戦後に出羽国秋田に移封され,徳川頼房を藩祖とする水戸藩がおかれ,小藩や幕領・旗本領にわかれた。1871年(明治4)の廃藩置県により藩は県となり,その後,南部を新治県,北部を茨城県に統合。75年新治県と茨城県,千葉県の一部が合併して茨城県となる。

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