日本歴史地名大系 「吉原村」の解説
吉原村
よしはらむら
鎌倉時代以降吉原庄の地で、天正一六年(一五八八)に行われた長宗我部検地でも、当村のみが吉原庄地検帳として一冊になっている。大将軍村・住吉村・沢村・八反畠村・十町分村・西木戸村・タツミノ村・浜出村・黒ノ前村・宮村・野本村・上前田村・井戸村・高山村・東島村などの村名がみえ、その総計八五町二反四代一歩、屋敷数大小一〇五。うち田分は五八町九反余、畠分一七町三反余、屋敷分八町九反余。ほかに「右之算用ニハ不入分」として、香宗古川と吉原の論所六町四反余、久枝と吉原の論所一町二反余、
吉原村
よしわらむら
備後国世羅郡の西南端に位置し、南の
「芸藩通志」には、北東にある
吉原村
よしわらむら
- 千葉県:佐原市
- 吉原村
下総台地北部に位置し、北は
〔中世〕
嘉承―長承(一一〇六―三五)のものとみられる香取社大禰宜大中臣真平譲状(香取文書、以下中世の記述では断りのない限り同文書)に「限北太田・吉原・大畠堺」とみえ、
吉原村
よしわらむら
- 香川県:善通寺市
- 吉原村
吉原村
よしはらむら
吉原村
よしわらむら
吉原村
よしはらむら
吉原村
よしわらむら
吉原村
よしはらむら
吉原村
よしわらむら
吉原村
よしわらむら
西は
天正初期までに土岐氏の支配に入ったとみられ(鹿島神社棟札写)、天正一八年(一五九〇)に蘆名氏領、その後天領となり、宝暦一一―一二年(一七六一―六二)頃から一時旗本与力衆の知行地になる(「訴状」宮本家文書)。
吉原村
よしわらむら
吉原村
よしわらむら
市域最南端部に位置し、
寛永一〇年(一六三三)の吉原村新百姓証文写(花園区有)に「御役等之義已来ともニ御免被成候事、但其村之堤・井川之義ハ仕可申事」とあり、自村の堤普請以外の諸役はすべて免除される特典を得て、一六人の新百姓が入植している。
吉原村
よしはらむら
吉原村
よしわらむら
吉原村
よしわらむら
吉原村
よしはらむら
天正一七年(一五八九)の地頭分地検帳の「吉原名」にあたり、吉原名は名本分と公事分からなるが、名本の居住は不明。地積三町二反余のうち田一町三反余・畠四八代余・屋敷一町七反余で、屋敷二二筆のうち居屋敷は一四筆で明屋一があった。同年の地頭分切畑地検帳には吉原名のほか小村と思われる
吉原村
よしはらむら
慶長検地高目録によると高六七八石余。吉原組に属し、同組大差出帳(和歌山大学蔵)では家数一二二、人数六四八、牛一九、池一九、松山七。文久元年(一八六一)の吉原組達し留(宮本家蔵)によると、当村と広原村持合の和田内山を小前百姓が開墾して櫨実を植えていたが、万延元年(一八六〇)、
吉原村
よしはらむら
吉原村
よしはらむら
- 和歌山県:橋本市
- 吉原村
紀ノ川支流の吉原川の谷沿いにあり、東の
吉原村
よしわらむら
吉原村
よしわらむら
吉原村
よしはらむら
吉原村
よしはらむら
吉原村
よしわらむら
吉原村
よしわらむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報