新部村
につぺむら
[現在地名]佐原市新部
下総台地北部に位置し、西は佐原村・牧野村。集落は南東の新市場村・釜塚村に連なる丘陵地に形成され、水田はおもに南西部を流れる小野川の谷に広がる。新市場村の枝郷(元禄郷帳・天保郷帳)。新辺村とも記される。
〔中世〕
香取社領のうちで、弘安元年(一二七八)一〇月一四日の香取神領田数目録(香取文書、以下中世の記述では断りのない限り同文書)などに「新部」とみえ、一八町九反余の香取社領田があり、司(大宮司分)・良(国行事分)などの名からなる。なお神領畠は三町五反余で、司と御名(千葉氏分)などで構成されていた(正慶二年四月一六日香取大領麦畠検注取帳)。永仁五年(一二九七)には祖父の蓮教房が録司代円持房から買取り、子息の大和公、大和公から子の新部の平四郎入道・同平次五郎在弘(千葉氏一族か)に譲られた地内の一反小の田地が直銭六貫八〇〇文で本主の子孫伊与公に売渡されている(同年二月一四日平在弘等連署売券)。
新部村
しんべむら
[現在地名]小野市新部町・
旭町・
旭新町 長町村の北に位置する。加古川右岸の低地から西の青野原台地の麓にかけて本村・宮本・門前・力万・桑村・大寺・井の口・井摺の垣内があって集落を形成している。古代贄部氏が居住し加古川の魚を朝廷に献上していたところから村名を贄部とよんでいたが、のちに「にいべ」となり、「新部」と書くようになって、これを「しんべ」と音読するようになったという(加東郡誌)。天正年間(一五七三―九二)と推定される年未詳九月五日の羽柴秀吉判物(山田文書)に「河合郷しんへい村」とみえ、秀吉は同村の山田新介に同村の船頭四人の人夫を免除している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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