佐原村
さばらむら
[現在地名]福島市佐原
上名倉村の西方にあたり、吾妻山系東山麓、荒川左岸の扇頂部から扇央部に位置する。中央を須川の支流鍛冶屋川が流れる。天文七年(一五三八)の段銭古帳に信夫名倉方のうちとして「さはら」とみえ、段銭は二貫一五〇文。なお「吾妻鏡」文治五年(一一八九)八月八日条にみえる「伊達郡沢原辺」を当地にあてる説もあるが(信達一統志)、未詳。
文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高三三七石余。近世初期の邑鑑によると免二ツ八分、家数三四(役家一二、肝煎一、寺・脇家二一)、人数一〇一、役木として桑・楮各少しがある。米沢藩領時代の古高九三六石余、幕府検地による新高七〇七石余(古高新高帳)。
佐原村
さわらむら
[現在地名]横須賀市佐原一―五丁目・森崎三丁目
内川新田村の西にあたり、大矢部村・岩戸村の東にあり、谷が中世の久里浜の深い入江に注ぐ辺りに開ける。治承四年(一一八〇)に没した三浦義明の子義連がこの地に住して佐原氏を称した(三浦系図)。「吾妻鏡」承久三年(一二二一)六月一五日条に「三浦佐原輩」とある。小田原衆所領役帳に愛洲兵部少輔「八拾貫文 三浦佐原」とあり、岩戸村とともに水軍の拠点であった。
佐原村
さわらむら
[現在地名]本巣町佐原
神海村の北に位置し、山間の谷間を流れる根尾川の東岸に佐原・鍋原集落がある。年未詳三月一六日の稲葉貞通書状(加納文書)によれば、外山のうちの佐原村が稲葉氏の家臣加納悦右衛門に給付されている。関ヶ原の合戦後の領主の変遷は山口村と同じ。慶長郷帳に村名がみえ、村高八六石余。正保郷帳では田六二石余・畑二三石余、山年貢米二石八斗・紙舟役銀四六匁二分の小物成を上納。元治元年(一八六四)の佐原村家数人数増減帳(浅野文書)によれば家数五〇・人数二一一、馬一四。
佐原村
さわらむら
[現在地名]大台町佐原
上三瀬村の南西、宮川の左岸にある。北西の山間部から向粥見村(現飯南郡飯南町)へ通じる経路を佐原越あるいは相津越と称している。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「三瀬谷之内佐原郷」、宝永四年(一七〇七)新畑亥改検地帳(同蔵)では「佐原村」と記されている。大杉谷(現宮川村)への参拝の山田(現伊勢市)方面からの道筋にあたり、宮川の水運の拠点の一つでもあった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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