百科事典マイペディア 「日本工房」の意味・わかりやすい解説
日本工房【にほんこうぼう】
→関連項目東方社
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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…R.キャパ,M.バーク・ホワイト,E.スミス,H.カルティエ・ブレッソンといった写真家は,そのようななかから現れた写真家である。日本でジャーナリズムにおける写真の位置づけを明確にしたのは,名取洋之助,木村伊兵衛らによる理念の実践としての〈日本工房〉(1933創立)の出版活動に始まるといえる。もちろんその前にも写真はジャーナリズムの中で盛んに使われていたが,多くは文章の挿絵であったり,図的な資料としての写真であった。…
…とくに1920年代半ばに高感度原板が登場して以降は,ショット撮影を利しての写真報道雑誌がドイツとフランスであいついで刊行され,組写真によるストーリー的な提示もはじまった。その動向がイギリスを経由してアメリカに伝播するころ,日本でも名取洋之助の呼びかけで1933年日本工房が結成され,林達夫を顧問として木村伊兵衛がスナップショットによる世相と人物の描写を試行した。おなじ名取の第2次日本工房では人物,社会,伝統文化へと対象をひろげつつ日本のリアリズム写真を代表することとなる土門拳が活動を開始した。…
…山形県酒田市に生まれたが,1916年に東京に移転,当初画家志望であったが才能に限界を感じ,33年に営業写真館〈宮内写真館〉の内弟子となって写真の技術を学んだ。35年,名取洋之助の主宰する〈日本工房〉の写真技師として採用され,報道写真の技術と精神を身につけた。39年に同工房を退社し,〈国際文化振興会〉の嘱託として,大型カメラによる室生寺,文楽等の撮影を開始した(のち写真集として出版)。…
…主としてグラフ週刊誌《ベルリーナー・イルストリールテ・ツァイトゥング》に報道写真を発表,32年,同社特派員として帰国して,そのまま日本にとどまった。34年,木村伊兵衛,伊奈信男らと〈日本工房〉を設立,展覧会などで,報道写真の啓蒙にあたった。同工房はすぐに内部対立で分裂したが,彼は第2次〈日本工房〉を再建,同年10月からは海外向け日本宣伝雑誌《NIPPON》を発行し始める。…
…ルーマニア生れのムンカッチMartin Munkacsi,アイゼンシュタットAlfred Eisenstaedt,ハンガリー生れのR.キャパ,日本の名取洋之助などはこうした環境のもとに活躍した写真家である。名取洋之助は1932年にドイツから日本に帰り,〈日本工房〉を設立してドイツで体得したルポルタージュ・フォトの方法を木村伊兵衛,土門拳らとともに実践し,日本における報道写真の道を開くことに大きな貢献をした。 一方,アメリカにおいては,ニューヨークの貧民街を撮影してキャンペーンを行ったリースJacob August Riis(1880)や,20世紀の初めに移民収容所の悲惨な状況を撮影して社会に訴えたL.W.ハインなどが独自のドキュメンタリー・フォトの道を開きはじめ,特に大恐慌後の30年代に,R.E.ストライカーの指導のもと,FSA(Farm Security Administration=農地保全管理局)広報資料撮影のために集まった写真家たち,すなわち,W.エバンズ,D.ラング,ロスタインArthur Rothsteinらは,アメリカのドキュメンタリー・フォトの基本的な方向を打ち出したといえる。…
※「日本工房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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