史上最悪とされる世界的な景気後退。1929年にニューヨーク株式市場の暴落から始まった。米国は33年までに国民総生産(GNP)が3割落ち込んだ。米国は積極的な公共事業の実施などからなる「ニューディール政策」で景気浮上を目指したが、30年代は約10年間にわたり不況が続いた。日本を含む各国も景気が悪化。第1次大戦に敗れ多額の賠償金の支払いに苦しむドイツでは、経済への追い打ちから国民の不満が高まり、ヒトラーやナチスが台頭する一因になったともいわれる。(共同)
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1929年に始まる過剰生産恐慌。単に工業恐慌のみならず、農業恐慌、金融恐慌、資本主義の根幹に触れる通貨恐慌、本位貨恐慌に及び、しかも世界各国(社会主義国であったソ連を除く)を巻き込み、1933年にまで至る広範囲、長期という特徴をもつゆえに、数ある恐慌のうちとくに「大恐慌」とよばれている。
1929年10月24日(木曜)のウォール街のニューヨーク株式市場における瓦落(がら)は「暗黒の木曜日」といわれ、この大恐慌爆発の契機となった。以後2か月の間に株式は平均42%の急落を告げた。これは、アメリカが第一次世界大戦中に戦場となることなく、戦争経済から得た過度の利潤を貸付資本として「永遠の繁栄」のもとに投機的に株式投下し、株価を水膨れさせた結果の破綻(はたん)であり、そのアメリカ経済の内部に過剰生産が進行していたことによる。
[海道勝稔]
第一次世界大戦における戦争利得国アメリカは、1920年の戦後恐慌を経て、いち早く世界の中心的資本主義国に台頭し、戦場だった西欧諸国に対して帝国主義国としての生産力と資本力の格差をつけ、1922年には上昇局面に入る。それを支えたのはおもに、アメリカの戦時利得による過剰な資本の西欧・中南米への輸出と、国内成長産業である耐久消費財(自動車、家庭電気器具など)および建築への投資であり、低廉な購入信用(=消費者信用)もこれに役だった。さらに自動車、建築などは裾(すそ)の広い多数の部品産業と関連産業をもっており、1920年代のアメリカ国内に好況をもたらした。しかし反面、同じ1920年代には一貫して5%以上の失業率をもつ構造的失業も確かに存在し、また農業、綿紡績、皮革、石炭、造船など不況産業も抱え、成長と停滞が併存する形での好況であった。他方、アメリカは第一次世界大戦後は世界一の農業国になったが、ヨーロッパ農業の回復とともに世界的に生産過剰が表面化し、1920年代を通じ世界農業は慢性的不況を呈していた。
また世界経済においては、戦争の痛手から遅々たる回復しか示さない西欧諸国(および恐慌頻発の日本)と、アメリカとの格差は広がり、アメリカの債務国から最大の債権国へ、ドイツの資本輸出国から輸入国へ、フランスの長期資本輸出国から短期中心のそれへ、イギリスの短期借り長期貸しの資本輸出国への跛行(はこう)的変化のもとに、おのずから一つの国際的循環が形成された。アメリカの債権国としての過剰な民間ドル資金の対外輸出(流出)は、主として西欧、とくにドイツに流れ、その復興資本に役だち、その取得されたドル為替(かわせ)がドイツの賠償の支払いを可能にし、それを得たイギリス、フランスは、アメリカに戦時債務の返却をするという還流循環であり、それによって1920年代の好景気が維持された。いま一つは、中南米、カナダに投下されたアメリカ民間資本がイギリスに吸い上げられ、イギリスの対米貿易赤字支払いにあてられる連鎖となった。こうして1920年代の景気上昇と再建金本位制(金為替本位制)がつくられた。それらは、ことごとに、1929年に始まる大恐慌および1930年代の慢性不況の基礎条件をつくった。
[海道勝稔]
1920年代のアメリカのこの景気上昇を支えた過剰資本は、景気の進行とともに遊休過剰資本の株式投機、土地投機(フロリダが最盛)となり、1920年代末にはその頂点となったが、すでに未曽有(みぞう)の過度信用と過度投機が累積し、自動車、建築、その他耐久財に過剰がやってきていた。
かくて先の未曽有の株式瓦落を契機に深刻な大恐慌が始まった。とくに景気の規定的要因である建築、鉄鋼、自動車の減退は著しく、滞貨の激増、生産の縮小、企業倒産の続出、失業者の増大、それら下降要因の累積的相互波及により経済活動の麻痺(まひ)を引き起こした。この場合、生産の低下は、独占の高い自動車、鉄鋼できわめて大きいが、価格低下は小さく、独占特有の下方硬直性を示した。しかし、農業や皮革のように競争的非独占部門では激しい価格崩落が起こった。全部門で総じて強い有効需要の減退となって未曽有の長期深刻なものとなった。また、建築活動の縮小がはるかに厳しい事態となったのは、耐用期間が長期化するからで、1930年代前半まで続き、この大恐慌が長期化する大きな要因をつくった。
この結果、生産財生産は20世紀初頭の水準まで引き戻され、バルガの推定によると、恐慌前の最高点から恐慌中の最低点への工業生産低下率は、アメリカ56%、イギリス32%、ドイツ52%、フランス36%という大幅なものであった。企業数は1929年の20万9000から1932年の13万9000に激減し、失業者は1930年400万人余、1932年1250万人、1933年1600万人と拡大の一途をたどり、失業率も30%の水準に迫ったのである。
このように大恐慌は、先の国際的連関を通じ、アメリカからドイツ、イギリス‐フランスなどと連鎖反応して全世界を巻き込む世界恐慌となったのみならず、さらに激しい価格下落を起こした深刻な慢性的農業恐慌を伴っており、農民層の分解と土地喪失を起こし、全生産部門を襲った全機構震撼(しんかん)となった。
それだけではない。この恐慌は長期化し、1932年なかばまで下降要因の累積的相互波及が続くが、すでに1930年末から始まった信用恐慌へつながり、ニューヨークのバンク・オブ・USの倒産まで含む重大なものとなった。この金融恐慌はオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタルトを1931年5月に破産に追い込み、かくてドイツ、イギリスへと波及して、ついに1931年9月にはイギリス、1933年3月にはアメリカが金本位制を離脱するという資本主義の根幹を揺るがす本位貨崩壊にまで及んだ。この包括的な大恐慌は、ようやく1933年夏に底をみせ、不況に移行したのであった。
結局、大恐慌は1929年から1933年まで長期停滞を示し、好況への回復をみせず、その後の慢性的不況にみられるように、これまでに前例のない資本主義の自動回復力喪失を示し、順調な成長力を示す社会主義とは対蹠(たいしょ)的となった。この克服のために提唱されたのが、国家による有効需要創出、完全雇用、金本位制停止にかわる管理通貨制度、というケインズ政策である。アメリカは、このケインズ政策を一部取り入れたニューディール政策をとったが、世界の大勢は、イギリスのスターリング特恵制度成立を機に、世界貿易のブロック化と、それに対抗するファシズム化・国家独占資本主義化を生み出し、第二次世界大戦を準備する傾向をつくりだした。
[海道勝稔]
『玉野井芳郎編著『大恐慌の研究』(1964・東京大学出版会)』▽『吉富勝著『アメリカの大恐慌』(1965・日本評論社)』▽『『岩波講座 世界歴史27 世界恐慌期』(1971・岩波書店)』
1929年から33年にかけて発生した世界的な恐慌。この世界大恐慌は,次の三つの点で画期的な出来事だった。第1は,それが歴史上最も激しく,かつ世界経済全体(社会主義国のソビエト連邦を除く)を巻きこんだこと。第2に,そこからケインズ理論が生まれ,第2次大戦後の経済政策のあり方を大きく支配したこと。第3に,世界大恐慌は,経済的にはブロック化(ブロック経済)を生んで自由貿易体制を分断し,政治的にはドイツ,日本,イタリアなどでファシズムを生んで,第2次大戦への導火線となったことである。世界大恐慌の主因は,アメリカの大恐慌にある。第1次大戦後,ヨーロッパ経済が停滞しつづけるなかで,ひとりアメリカは繁栄を続けていた。だが1929年10月24日にニューヨークの株式市場が大暴落した(〈暗い木曜日〉)。アメリカの実質GNPは33年にかけて30%も低下し,卸売物価も年に10%以上も下落した。閉鎖された銀行数はこの間およそ1万行に達し,33年の失業率は4人に1人の割合にまで高まった。この大恐慌のためアメリカの輸入が激減し,物価水準の大きな下落を通じて世界経済を大恐慌へまきこんでいった。国際金融恐慌は,1931年5月にオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタルトを倒産させ,それがさらにドイツの金融恐慌へと発展した。そうした影響から,当時世界金融の中心地であったロンドンからも短期資本が引き揚げられはじめ,31年9月にはイギリスの金本位制が停止された。ヨーロッパの金融恐慌のもう一つの原因には,東欧諸国における農業恐慌もあった。世界の一次産品価格が工業品価格以上に崩落したため,当時の途上国で対外債務の返済を拒絶する国も続出してきた。33年3月にはアメリカ自身も金本位制から離脱するのである。
なぜ,かくも激しい大恐慌が生じたのであろうか。第1に,企業の設備投資は不況とともに大きく落ちこむ性質をもっているのに加えて,1920年代の繁栄のなかで所得の増減に敏感な自動車や住宅が家計の支出項目の中で大きな比重を占めるようになっていたことが,アメリカの不況を強めた。また,株式ブームの崩壊のため大きなキャピタル・ロスが発生し,それが当時主導産業であった自動車,住宅への需要を激減させることになった。第2に,20年代に大企業の生産集中が進み,独占体制が強まっていたことである。このため大企業は,不況になると,価格の低下をできるだけ小さくしようとして,生産を大きく削減した。そのことが,雇用と所得を大きく低落させていったのである。第3は,連邦準備制度が,国際金融恐慌のためアメリカから金が流出したり,あるいは預金の引出しによって銀行倒産が増えたりしたとき,十分に通貨を供給していかなかったからである。
しかし,大恐慌の原因をめぐっては,学説が大きく二つに分かれている。一つの学説は,設備投資,住宅投資,耐久消費財の需要など民間部門の支出の動きそのものが不安定な点を強調する,いわゆるケインジアンの考えである。もう一つの学説は,連邦準備制度による通貨政策の失敗を重視し,通貨供給量を削減しすぎたことが原因だとする,いわゆるマネタリズムの考えである。J.M.ケインズは,不況の原因を有効需要の不足に求める理論体系を《雇用・利子および貨幣の一般理論》として1936年に発表した。有効需要の不足によって発生している大量の失業を,政府支出の拡大なり減税といった財政政策,あるいは通貨供給の増大といった金融政策によって,解消していくことができることを証明したのである。それ以前の古典派経済学では,失業の発生を,もっぱら実質賃金が労働生産性に比べて高すぎることに求めていた。労働コストが高すぎると,労働に対する企業の需要が弱くなるからである。しかし,こうしたケインズ理論は,1934年以降のニューディール期に積極的に生かされることはなかった。かえって,ドイツ,日本などでは軍事支出の拡大が景気を回復させたが,アメリカでは1937-38年に再び厳しい不況が訪れ,結局1930年代を通して,アメリカの1人当り国民総生産(GNP)は1929年のピークを抜くことができず,30年代は大不況の10年となってしまった。アメリカもまた,第2次大戦によって,本格的に景気を回復し,大戦中に実質所得をほぼ倍増させたのである。
第2次大戦後の各国の経済政策は,1930年代の悲劇を繰り返すまいと,ケインズ政策を採用する場合が多かった。戦後の50年代,60年代はちょうど技術革新投資が盛んだったことにも助けられて,多くの先進国で比較的安定した高い成長率を持続させることができた。この結果,先進国はほぼ完全雇用を維持できるようになった。ところが,70年代に入ると,先進国の成長率は落ちる反面で,インフレ率は高まる傾向をみせはじめた。このためケインズ政策に対する批判が強くなった。ケインズ批判の根拠は次の3点に要約できる。第1に,1930年代の大量失業の影におびえすぎて,戦後のいくつかの景気後退期のように比較的わずかな失業率の上昇の場合にも,ケインズ政策を採用して景気を刺激しすぎた結果,インフレ体質が定着したこと。第2に,有効需要の不足を強調するあまり,貯蓄は悪徳として退けられたこと。それは長期的には,貯蓄を減らして,成長の基礎となる設備投資の資金源泉を枯らしてしまう。第3に,ケインズ政策は,財政赤字を許容する考えを広めたことから,国家の手による社会保障制度がゆきすぎることになった。こうして,80年代に入ってから,多くの国ではケインズ政策をあまり積極的に採用しなくなってきているのである。こういうケインズ政策への反省に比べると,最近保護貿易主義が強まっているとはいえ,世界の自由貿易体制の維持は,原則として強く支持されつづけている。大恐慌に端を発した世界経済のブロック化が,単に世界の貿易を通じた資源の配分をゆがめて経済の効率を著しく落としたばかりではなく,第2次大戦への道も開いたという認識があるからである。
→恐慌
執筆者:吉冨 勝
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…新たな雇用の機会に乏しい南部には大量の移民が流入することもなく,アングロ・サクソンと黒人中心の人口構成や生活様式が維持されたことも,南部が特殊な地域とみなされる原因となったといえよう。 綿花やタバコの単一作物栽培,小作人制度,資源開発や工業化の遅れ,北部資本への依存など,南部経済のかかえる弱点を徹底的に明らかにしたのは,1930年代の大恐慌である。F.D.ローズベルト大統領は南部を〈わが国第一の経済問題〉と呼び,TVAをはじめとするニューディール諸政策を通じて南部の救済と発展に力を注いだが,その後とくに第2次大戦以来今日にいたるまでの南部経済は急激な成長をとげてきた。…
…大不況後は,イギリス,アメリカ,ドイツに大規模な企業合同運動が進展して金融資本が確立される時期に生じた1900年恐慌や,金融資本の世界的な蓄積機構,とりわけ国際金本位機構を介して世界的連動性を顕著に示した1907年恐慌をはさみながら,概して世界的な景気は好況的に推移し,資本主義の矛盾はむしろ世界戦争の危険に転化されていく傾向がみられた。 第1次大戦は世界経済にさまざまな衝撃やひずみを残し,1920年代の短期的な相対的安定期を経て,29年10月のニューヨーク株式市場の暴落(暗黒の木曜日)をきっかけに大恐慌の発生をみることとなる。33年春にかけてアメリカの失業率は25%に激増し,世界的な農業恐慌も再現し,その不況圧力のもとにブロック経済とファシズムが台頭し,第2次大戦が必然化されていく。…
… また,このころには主要諸国で普通選挙制が一般化して大衆の政治的・経済的要求が強まるとともに,ロシア革命によって社会主義の脅威が現実化したために,政府はこれに対応して失業対策などさまざまの社会改革を実施した。
[国家独占資本主義,修正資本主義]
こうした傾向は大恐慌をへて本格化する。1929年にアメリカでおこった恐慌は,アメリカ国内での過剰な投資の拡大が原因とみなされるが,その深さと広がりは未曾有のものであり,アメリカの失業は一時1300万人,25%にものぼった。…
… 国が低所得の要援護者に対して生存水準を維持できるような給付の義務を負っていることが基本的内容になっている公的扶助と,強制的な拠出にもとづく受給権を基礎とする相互援助の社会保険は,社会保障の二つの系譜をなすものであるが,やがてこれが社会保障制度の二大支柱となり,一体になって制度の展開と発展を推進していくのである。
[大恐慌と社会保障の展開]
社会保障の生成と発展にとって画期的な契機になったのは1929年に始まる大恐慌である。好況と不況の周期的循環を伴いながら発展してきた資本主義経済のリズムはこの大恐慌によってくずれ,大量かつ恒久的な未曾有の失業状態が発生して,経済的にも社会的にも深刻な問題に直面した。…
…第1次世界大戦の終結(1918年11月)から第2次世界大戦の勃発(1939年9月)までの約20年間を指すが,この時期は,国際政治史の観点からすれば,戦後処理から安定に向かった1920年代が大恐慌の突発(1929)によって一挙に暗転し,激動と対立の30年代につなげられ,再び世界大戦へと帰結する,〈20年間の休戦〉とも呼びうる時期であった。 一般に1880年代以降,世界は近代から現代へと移り変わりはじめ,第1次大戦はこの転換過程を加速したといわれているが,戦間期はこうした流れが一時的に中断され,古い要素と新しい要素が入りまじり,せめぎ合ってユニークな合成効果を生んだのであった。…
※「大恐慌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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