写真家・写真編集者。東京・高輪(たかなわ)生まれ。1930年代にルポルタージュ・フォト(報道写真)の方法論をドイツから日本へ移入・実践し、第二次世界大戦前から戦中、戦後の1950年代までにかけて数々のグラフ雑誌や写真出版物の制作にたずさわった。1928年(昭和3)、慶応義塾普通部を卒業後母とともにドイツへ渡る。ミュンヘンの美術工芸学校で商業美術を学び、30年同地の毛織物工場でテキスタイル・デザインの仕事につく。同年、工芸デザイナーのエルナ・メクレンブルクと結婚、以後第二次世界大戦中まで、仕事上でもパートナーとして行動をともにする。31年小型カメラの新機種ライカを入手、知人より写真の手ほどきを受ける。同年、妻エルナが撮影したミュンヘン市立博物館の火事場跡の写真を地元新聞に持ち込み、掲載される。以後、フォトジャーナリスト活動を始め、ドイツの大手新聞・雑誌出版社ウルシュタイン社の契約写真家となり、32年同社特派員として日本へ一時帰国。日本の文化、生活様式、自然などを取材し、3か月で7000枚の写真を撮影。それらの取材成果は「日本の宿屋」「日本の家庭生活」「着物と髪」「東京の街頭」というタイトルの組写真の形で各国の新聞・雑誌に配信された。
1933年満州事変を従軍取材、停戦後、ヒトラー政権のドイツ国内外国人就労規制が打ち出されたため、ドイツへ戻らず日本に活動の本拠を移す。同年、「報道写真」という新しい理念の実践を目ざし、写真家の木村伊兵衛、プランナーの岡田桑三(そうぞう)(1903―83)、写真評論家の伊奈信男、グラフィック・デザイナーの原弘(ひろむ)と日本工房(第一次)を設立。翌年、新たにグラフィック・デザイナー山名文夫(あやお)(1897―1980)らの協力を得て第二次日本工房を創設、海外向け日本文化宣伝グラフ誌『NIPPON』を創刊。同誌の編集を通じ名取は、写真を視覚伝達のための記号として機能的に使いこなす方法を追求。写真担当土門拳、藤本四八(しはち)(1911―2006)、デザイン担当亀倉雄策らのスタッフを得て、当時にあっては群を抜く洗練されたスタイルの誌面作りを展開した。1937年アメリカを取材旅行、ニュー・イングランド地方を撮影した写真が『ライフ』誌に掲載される。翌年、日中戦争下の上海(シャンハイ)で対外宣伝グラフ誌『SHANGHAI』『CANTON』の創刊にたずさわり、さらに日本工房を国際報道工芸に改組(1939)して以降、第二次世界大戦終結までおもに中国大陸で軍関係の宣伝や出版活動に従事した。
敗戦後、日本版『ライフ』を目ざした『週刊サンニュース』の編集(1947~49)や、写真を中心とするレイアウトで1冊ごとに一つのテーマを図解していくスタイルの出版物『岩波写真文庫』の編集(1950~58)を手がける。56年(昭和31)には中国の仏教遺跡・甘粛(かんしゅく/カンスー)省天水県南東の麦積山石窟(ばくせきざんせっくつ)を撮影。59年からは4回にわたり渡欧し、ロマネスク美術の彫刻や文様を撮った。
[大日方欣一]
『『麦積山石窟』(1957・岩波書店)』▽『『ロマネスク 西洋美の始源』(1962・慶友社)』▽『『人間動物文様――ロマネスク美術とその周辺』(1963・慶友社)』▽『『アメリカ1937――名取洋之助写真集』(1992・講談社)』▽『『写真の読みかた』(岩波新書)』▽『Grosses Japan (1937, Karl Specht, Berlin)』▽『中西昭雄著『名取洋之助の時代』(1981・朝日新聞社)』▽『三神真彦著『わがままいっぱい名取洋之助』(1988・筑摩書房)』▽『石川保昌著『報道写真の青春時代――名取洋之助と仲間たち』(1991・講談社)』▽『『日本の写真家18 名取洋之助』(1998・岩波書店)』▽『「名取洋之助の仕事=大日本」(カタログ。1978・西武美術館)』
昭和期の写真家,アートディレクター
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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写真家,編集者。日本に最初に本格的な〈報道写真〉の理念と方法を紹介した人物として知られる。実業家名取和作の三男として東京に生まれ,慶応義塾普通部卒業後,1928年に渡独,独学でカメラの操作を学び,ウルシュタイン社の契約カメラマンとなる。主としてグラフ週刊誌《ベルリーナー・イルストリールテ・ツァイトゥング》に報道写真を発表,32年,同社特派員として帰国して,そのまま日本にとどまった。34年,木村伊兵衛,伊奈信男らと〈日本工房〉を設立,展覧会などで,報道写真の啓蒙にあたった。同工房はすぐに内部対立で分裂したが,彼は第2次〈日本工房〉を再建,同年10月からは海外向け日本宣伝雑誌《NIPPON》を発行し始める。同誌はデザイナーの山名文夫(やまなあやお),亀倉雄策(1915-97),カメラマンの土門拳などのスタッフによる,質の高い視覚的なグラフ雑誌であった。戦後は《週刊サンニュース》(1947),《岩波写真文庫》(1950)などを編集・企画し,ジャーナリストとしても活躍するとともに多くの写真家たちを育てた。著書《写真の読みかた》(1963)は,編集者の立場から書かれたユニークな写真論である。
執筆者:飯沢 耕太郎
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…R.キャパ,M.バーク・ホワイト,E.スミス,H.カルティエ・ブレッソンといった写真家は,そのようななかから現れた写真家である。日本でジャーナリズムにおける写真の位置づけを明確にしたのは,名取洋之助,木村伊兵衛らによる理念の実践としての〈日本工房〉(1933創立)の出版活動に始まるといえる。もちろんその前にも写真はジャーナリズムの中で盛んに使われていたが,多くは文章の挿絵であったり,図的な資料としての写真であった。…
…とくに1920年代半ばに高感度原板が登場して以降は,ショット撮影を利しての写真報道雑誌がドイツとフランスであいついで刊行され,組写真によるストーリー的な提示もはじまった。その動向がイギリスを経由してアメリカに伝播するころ,日本でも名取洋之助の呼びかけで1933年日本工房が結成され,林達夫を顧問として木村伊兵衛がスナップショットによる世相と人物の描写を試行した。おなじ名取の第2次日本工房では人物,社会,伝統文化へと対象をひろげつつ日本のリアリズム写真を代表することとなる土門拳が活動を開始した。…
… ドイツでは1920年代の後半から,ドイツ労働者写真家連盟の機関誌に載せられた下級労働者の実情を撮った組写真や,ワルター・ネッテルベックのエッセーなどによって,徐々にルポルタージュ・フォトの方法論が明確な形をとりはじめ,《ミュンヘナー・イルストリールテ》誌の編集長となったシュテファン・ローラントによる撮影や写真の組み方の原則の明示,それにすぐれた写真家の輩出によって,1930年ころには写真週刊誌の隆盛期を迎えた(グラフ・ジャーナリズム)。ルーマニア生れのムンカッチMartin Munkacsi,アイゼンシュタットAlfred Eisenstaedt,ハンガリー生れのR.キャパ,日本の名取洋之助などはこうした環境のもとに活躍した写真家である。名取洋之助は1932年にドイツから日本に帰り,〈日本工房〉を設立してドイツで体得したルポルタージュ・フォトの方法を木村伊兵衛,土門拳らとともに実践し,日本における報道写真の道を開くことに大きな貢献をした。…
※「名取洋之助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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