亀倉 雄策(読み)カメクラ ユウサク

20世紀日本人名事典 「亀倉 雄策」の解説

亀倉 雄策
カメクラ ユウサク

昭和・平成期のグラフィックデザイナー 亀倉デザイン研究室主宰;元・日本グラフィックデザイナー協会会長。



生年
大正4(1915)年4月6日

没年
平成9(1997)年5月11日

出生地
新潟県西蒲原郡吉田

学歴〔年〕
日大二中卒,新建築工芸学院〔昭和10年〕卒

主な受賞名〔年〕
日宣美会員賞(2回),毎日産業デザイン賞(3回),ADC賞金賞(4回),電通賞(2回),芸術選奨(第11回)〔昭和36年〕,ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ芸術賞〔昭和41年〕,ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ金賞〔昭和42年〕,紫綬褒章〔昭和55年〕,朝日賞(昭58年度),毎日芸術賞(第25回)〔昭和59年〕,国際文化デザイン大賞〔昭和61年〕,全国カタログ・ポスター展通産大臣賞〔昭和62年〕,勲三等瑞宝章,日本文化デザイン大賞,ラハチ国際ポスタービエンナーレ・グランプリ,文化功労者〔平成3年〕,国際デザイン・アオード(第6回)〔平成5年〕,毎日デザイン賞特別賞(第13回・平5年度)〔平成6年〕,ADC賞会員賞〔平成6年〕

経歴
グラフィックデザイナーの草分けで、東京五輪、札幌五輪や大阪万博、名古屋デザイン博、ヒロシマ・アピールズ、ユーロパリア・ジャパン’89のポスターを手がけた第一人者単純、明快な美の構図で、社会的発言を続けた。昭和12年日本工房(国際報道工房)に入社、土門拳らと海外向けの雑誌「NIPPON」のアートディレクターとして活躍。戦後26年日宣美の創設に参加、中心的役割を果す。35年原弘らと日本デザインセンターを設立し、専務。37年亀倉デザイン研究室設立。53年日本グラフィック・デザイナー協会を設立し、会長。平成元年から国際的デザイン誌「クリエイション」を発行、責任編集者。昭和36年の芸術選奨をはじめ、毎日産業賞、ADC賞など受賞多数。平成5年アートディレクターズ・クラブ(米国)殿堂入り。エッセイのうまさには定評があり、「離陸着陸」「曲線と直線の宇宙」など。他にNTTのシンボルマークなど。著書に「亀倉雄策のデザイン」「亀倉雄策の直言飛行」、「作品集亀倉雄策」。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「亀倉 雄策」の意味・わかりやすい解説

亀倉雄策
かめくらゆうさく
(1915―1997)

グラフィック・デザイナー。新潟県生まれ。少年期から雑誌『中央美術』や美術書を愛読する。日本大学第二中学時代にカッサンドルのポスターにふれ、グラフィック・デザイナーを志す。その後、エル・リシツキーのフォトモンタージュやバウハウスなどヨーロッパの新しいデザインと芸術に傾倒する。1938年に土門拳の紹介で名取洋之助と出会い、同氏主宰の日本工房に入り、英独仏西4か国語併記のグラフ誌『NIPPON』のアート・ディレクターを務める。51年、日本宣伝美術会(日宣美)の創立に参画する。その後、日本のデザイン界の第一線で指導的な役割を果たし、80年には紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受賞する。さらに89年には、リクルートから『Creation』を創刊し、94年(20号)まで続いた。91年(平成3)文化功労者。97年5月12日、心不全のため死去。おもな作品に「東京オリンピックのポスター」(1964)、「大阪万国博覧会ポスター」(1967)などがあり、また著作には『日本の庭』(伊藤ていじ・岩宮武二との共著)、『亀倉雄策のデザイン』(1983)などがある。

[村田 宏]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「亀倉 雄策」の意味・わかりやすい解説

亀倉雄策【かめくらゆうさく】

グラフィック・デザイナー。新潟県生れ。新建築工芸学院卒。1938年日本工房に入社し,対外宣伝誌《NIPPON》のアート・ディレクターとして活動。1951年日本宣伝美術協会創設に参加,1960年には原弘らと日本デザインセンターを創設するなど,第2次大戦後の日本のグラフィック・デザイン界で主導的な役割を果した。出版物やポスターをはじめ広範囲に活躍。代表作に東京オリンピックのポスター,1970年大阪万博の海外向けポスターなどがある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「亀倉 雄策」の意味・わかりやすい解説

亀倉雄策
かめくらゆうさく

[生]1915.4.6. 新潟,吉田
[没]1997.5.11. 東京,中央
グラフィック・デザイナー。日本大学第二中学校卒業後,新建築工芸学院に学ぶ。1938年名取洋之助が主宰する日本工房に入社,海外向けの広報誌『NIPPON』のアート・ディレクターとなり,芝浦モートルのポスターで注目される。第2次世界大戦後は日本のグラフィック・デザインの第一人者として,1951年原弘らと日本宣伝美術会を創立,1970年の解散までその中心となる。1961年芸術選奨,1966年ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ芸術賞,1967年同金賞,1980年紫綬褒章,1991年文化功労者など多数表彰を受けた。主要作品はカメラのニコン,東京オリンピック競技大会のポスター,日本電信電話 NTTシンボルマークなど。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「亀倉 雄策」の解説

亀倉雄策 かめくら-ゆうさく

1915-1997 昭和-平成時代のグラフィックデザイナー。
大正4年4月6日生まれ。戦前,雑誌「NIPPON」のアートディレクターをつとめ,昭和26年日本宣伝美術会,35年日本デザインセンターの設立に参加。東京・札幌五輪や大阪万博のポスター,NTTシンボルマークで知られる。58年朝日賞,平成3年文化功労者。平成9年5月11日死去。82歳。新潟県出身。新建築工芸学院卒。著作に「離陸着陸」「曲線と直線の宇宙」。

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367日誕生日大事典 「亀倉 雄策」の解説

亀倉 雄策 (かめくら ゆうさく)

生年月日:1915年4月6日
昭和時代のグラフィックデザイナー。亀倉デザイン研究室主宰;日本グラフィックデザイナー協会会長
1997年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の亀倉 雄策の言及

【名取洋之助】より

…同工房はすぐに内部対立で分裂したが,彼は第2次〈日本工房〉を再建,同年10月からは海外向け日本宣伝雑誌《NIPPON》を発行し始める。同誌はデザイナーの山名文夫(やまなあやお),亀倉雄策(1915‐97),カメラマンの土門拳などのスタッフによる,質の高い視覚的なグラフ雑誌であった。戦後は《週刊サンニュース》(1947),《岩波写真文庫》(1950)などを編集・企画し,ジャーナリストとしても活躍するとともに多くの写真家たちを育てた。…

※「亀倉 雄策」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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