日田代官所跡(読み)ひただいかんしよあと

日本歴史地名大系 「日田代官所跡」の解説

日田代官所跡
ひただいかんしよあと

[現在地名]日田市丸山二丁目

幕府領を支配する日田代官の陣屋跡。その所在地より永山布政ながやまふせい(豊後国志)とも称し、明和四年(一七六七)日田代官が西国筋郡代になるにおよび西国筋郡代役所・西国郡代所・日田郡代役所ともよばれた。幕府の有力な出張役所が日田に置かれたのは、九州北部における交通の要所であったことも背景にあるとみられるが、その役務のほかに九州諸大名らの動向を監察する任があったという点も留意される。寛永一〇年(一六三三)日田が幕府領となるに伴い、杵築藩主小笠原氏・中津藩主小笠原氏の大名預所となるが、同一六年小川正長・小川氏行の両代官の支配となり、永山城の前に役所(布政所)を置いた。支配領地は日田・玖珠くす・速見三郡の高四万一千八一三石余であった。両小川代官死去により明暦二年(一六五六)その子正久と行広が支配。万治元年(一六五八)大分高松たかまつ役所(現大分市)の設置により大分・宇佐両郡の支配地が変わり、日田代官の支配高は七万石となる。寛文元年(一六六一)には肥前鍋島藩主室の化粧領が返還され、小川代官支配となる。同四年村方の騒動(松井家文書)により二代目両小川代官は罷免された。同五年熊本藩主細川氏の大名預所となり、同藩から役人四〇人・足軽四〇人が派遣され領地受取りが行われた(日田記)。寛文六年代官山田利信は日田に在陣、代官竹内信就は高松在陣として着任する。竹内代官は日田郡のうち高瀬たかせ津江つえ大山おおやま五馬いつまの各与と二串にくし山田やまだ入江いりえ各村を支配したという(同書)。同一一年山田代官は岳林がくりん寺を復興、四代将軍徳川家綱は寺領として友田ともだ村内三〇石を与えた。なお寛文九年高松の竹内代官が替役となり、近藤政明が着任するも、同一一年替役、山田代官が高松在陣となった。延宝五年(一六七七)永田貞清(日田在陣)と三田守良(高松在陣)が着任、各三万五千石を支配。天和二年(一六八二)小野おの筋一〇村・大肥おおひ筋六村(高四千石)以外の幕府領は日田藩主松平直矩領となり、貞享三年(一六八六)居城ならびに家臣屋敷の大半が完成したが、七月には出羽山形へ転封となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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