日本大百科全書(ニッポニカ) 「広瀬久兵衛」の意味・わかりやすい解説
広瀬久兵衛
ひろせきゅうべえ
(1790―1871)
江戸後期の掛屋(かけや)、経世家。豊後国(ぶんごのくに)日田(ひた)郡豆田(まめだ)町(大分県日田市)の博多屋(はかたや)の三男として生まれる(広瀬淡窓(たんそう)は兄、同旭荘(きょくそう)は弟)。号は南陔(なんがい)。21歳で家督を相続し、西国筋(さいごくすじ)郡代役所や諸藩の用達(ようたし)として家運の発展に努め、「日田金(ひたがね)」の名をあげた。また、郡代塩谷大四郎(しおのやだいしろう)の命を受け、小ヶ瀬井路(おがせいろ)の開鑿(かいさく)や、筑後(ちくご)川舟運のための中城河岸(なかじょうがし)の設置、周防灘(すおうなだ)沿岸の豊後呉崎(くれさき)(豊後高田市)、豊前(ぶぜん)久兵衛(宇佐市)、さらに筑前(ちくぜん)千早(ちはや)(福岡県糸島市)などの新田開発をはじめ公共土木事業にも力を尽くした。1830年(天保1)に隠居してのちは、府内(ふない)藩(大分市)、対馬(つしま)藩田代(たしろ)役所(佐賀県鳥栖(とす)市)、福岡藩などにおいて、殖産興業を基本とする財政改革事業に専念した。1870年(明治3)12月府内より帰郷、翌年9月29日没す。82歳。
[豊田寛三]
『大分県教育会編『大分県人物志』復刻版(1976・歴史図書社)』▽『杉本勲編『九州天領の研究』(1976・吉川弘文館)』