改訂新版 世界大百科事典 「日祀部」の意味・わかりやすい解説
日祀部 (ひまつりべ)
日奉部とも書く。《日本書紀》敏達6年の条に,〈詔して,日祀部,私部(きさいべ)を置く〉と見える。伊勢斎宮の名代部という説も見られたが,やはり日神祭祀にかかわる部民と解するほうがよかろう。日祀部は,下総,上総,武蔵,上野,飛驒,越前,大和,土佐,筑紫,肥後,豊前など各地に分布するが,大和政権の勢力の及ぶ周辺地に多いことがまず注目される。このことが,日神的性格が強調される天皇の権威を宣揚する職掌を与えられたとされるゆえんである。この部民は,敏達天皇の采女(うねめ),伊勢大鹿首菟名子(うなこ)夫人と深い関係にあり,敏達天皇と菟名子の間に生まれた糠手姫皇女(宝王),およびその子で舒明天皇の皇后宝皇女(のちの皇極天皇)へと管掌されたのが財日奉部であったと考えられる。またこの大鹿首は中臣氏同族と称するが,後に日祀部も朝廷の祭官(神祇伯)の地位を占めるようになった中臣氏の管掌下に入ったことと無関係ではあるまい。中臣と日祀部の伝統的関係は他田(おさた)日奉部直が藤原卿の位分資人や光明子の中宮舎人を歴任したり,藤原百川らに擁立された光仁天皇の改元のとき,白亀を献じたのが肥後の日奉部であることからうかがえよう。
執筆者:井上 辰雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報