奈良時代の政治家。式家宇合(うまかい)の第8子で母は久米若女(くめのわかめ)。初め雄田麻呂(おだまろ)と称し、藤原仲麻呂の乱(764)で兄良継(よしつぐ)、弟蔵下麻呂(くらじまろ)が大活躍したことから道鏡らとのつながりを深めたらしく、769年(神護景雲3)に内竪卿弓削清人(ないじゅきょうゆげのきよんど)のもとで内竪大輔(たいふ)となり、同年由義宮(ゆげのみや)ができ河内(かわち)国が河内職と改められたとき河内大夫(たいふ)となったが、称徳(しょうとく)天皇崩御後は天武(てんむ)系の天皇を推した吉備真備(きびのまきび)らに反対して、天智(てんじ)系の光仁(こうにん)天皇をたてた際の中心人物の1人であったらしい。光仁即位後は右大弁(うだいべん)を経て参議となり、死去したときも参議でありそれほどの昇進はなかったようであるが、天皇の信任厚く腹心として内外の機務にあずかり知らないことはなかったといわれる。また百川は早くから後の桓武(かんむ)天皇に期待し、種々の計略をめぐらして772年(宝亀3)、皇后(聖武(しょうむ)皇女井上(いのえ)内親王)と、天皇と皇后との間に生まれた皇太子他戸(おさべ)親王を廃し、翌年、後の桓武天皇を皇太子にたてたといわれる。そこで桓武天皇は即位後百川に従(じゅ)二位右大臣を贈り、その子緒嗣(おつぐ)を参議にしたとき「緒嗣の父がいなかったら天皇にはなれなかったろう」といったという。百川の女(むすめ)旅子(たびこ)は桓武天皇の夫人(ぶにん)となり、後の淳和(じゅんな)天皇を産んだので、淳和天皇即位後太政(だいじょう)大臣正一位が贈られた。
[福井俊彦]
『横田健一著『道鏡』(1959・吉川弘文館)』▽『村尾次郎著『桓武天皇』(1963・吉川弘文館)』▽『平野邦雄著『和気清麻呂』(1964・吉川弘文館)』
奈良後期の官人。もと雄田麻呂(おだまろ)という。宇合(うまかい)の第8子で,母は久米若女。藤原諸姉(良継の女)はその妻。緒嗣,旅子(桓武天皇夫人,淳和天皇母),継業,帯子(平城天皇妃)の父。《日本紀略》宝亀1年(770)8月条にひく〈百川伝〉によると,同年の称徳女帝の没後,皇太子の決定にあたって右大臣吉備真備は天武天皇の血脈をひく文室浄三(ふんやのきよみ)を強く推した。百川は左大臣藤原永手,参議藤原良継らとはかってこれに反対し,宣命の語を偽作して白壁王の立太子を強行した。白壁王は770年10月即位した(光仁天皇)。《続日本紀》の百川の伝によると,天皇ははなはだ百川を信任し,ゆだねるに腹心をもってし,内外の機務でかかわり知らないものがなかったという。さらに《水鏡》によると,百川は772年5月の他戸(おさべ)親王の廃太子,翌年1月の山部親王(のちの桓武天皇)の立太子に際しても,内裏に長期間つめて天皇を説得し山部皇太子の実現を図ったことがみえるが,真偽は明らかでない。779年7月の没時には参議中衛大将兼式部卿従三位であった。天皇は悼惜し右大臣を追贈した。また女の旅子の子が淳和天皇として即位したことにより,823年(弘仁14)5月正一位太政大臣を追贈されている。
執筆者:栄原 永遠男
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(森公章)
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732~779.7.9
奈良後期の公卿。宇合(うまかい)の八男。母は久米若女(わかめ)。式家。はじめ名を雄田麻呂(雄田万呂)と称し,771年(宝亀2)頃百川と改名。759年(天平宝字3)従五位下に叙され,左中弁・右兵衛督・河内大夫などを歴任。771年参議となり,中衛大将などを兼ね,従三位に至る。白壁(しらかべ)王(光仁天皇)を擁立,皇太子他戸(おさべ)親王を廃して山部親王(桓武天皇)の立太子を実現するなど権謀術数にたけた。外孫淳和(じゅんな)天皇の即位により太政大臣正一位を追贈される。
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…この死は他殺もしくは自殺の可能性が強く,没後早くから祟りを恐れ,墓を改葬し山陵とし,后位を追復し吉野皇太后と追称したり,神社や山陵に幣帛や読経の奉納が行われている。この事件は藤原百川が中心となり天智天皇系の光仁―桓武の皇位継承を確立するため,天武天皇系の井上―他戸を廃する陰謀とみる説が有力である。事件の異常さは皇后が現身に竜となって祟ったとして早くから伝えられ,《水鏡》は天皇と皇后が美男美女を賭けた双六に端を発し背後に百川の暗躍する怪奇な事件とし,百川は怨霊となった皇后に悩まされて死んだとする。…
…宇佐八幡の神託を利用して皇位を窺窬(きゆ)し,和気清麻呂にその野望を絶たれたという宇佐八幡宮神託事件も,つまるところ仲麻呂の対皇室観に対抗して,その意識を一歩進めたものであった。しかし,770年(宝亀1)に称徳女帝が病死すると,独身であったために,ここで永らく続いた天武系の皇統が絶え,代わって藤原百川(ももかわ)らに擁立されて天智天皇の孫白壁王が皇太子となり,道鏡は下野薬師寺別当として追放され,彼地に没した。白壁王はやがて光仁天皇として即位し,百川らは政治の刷新を図った。…
…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家,二条家,一条家,九条家,鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…
※「藤原百川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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