後に重祚して斉明天皇。第35代,第37代に数えられる天皇。在位642-645年および655-661年。本名は宝皇女。父は舒明天皇の弟の茅渟(ちぬ)王で,母は欽明天皇の孫の吉備姫王。初め高向王に嫁して漢(あや)皇子を生み,のち舒明天皇の皇后となって中大兄皇子(天智天皇),間人(はしひと)皇女(孝徳天皇皇后),大海人(おおあま)皇子(天武天皇)を生んだ。641年(舒明13)に舒明天皇が死ぬと翌年正月に即位し,その翌年に飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)を営んで移り,大臣蘇我蝦夷がやがて子の入鹿に執政の権をゆだねると,入鹿を大いに親任したが,645年6月に大化改新のクーデタが行われると,天皇は皇位を弟の孝徳天皇に譲って皇祖母尊(すめみおやのみこと)と呼ばれることになった。その後654年(白雉5)に孝徳天皇が死ぬと,その翌年に再び即位して重祚の例を開き,翌年新たに飛鳥岡本宮を営んで移り,このたびの在位に対してはのちに斉明天皇という諡号(しごう)が贈られた。この治世には皇太子中大兄皇子が実権を握って改新政治を推進していったが,海外では東アジアの緊迫した国際情勢がいよいよその最終段階に入り,660年(斉明6)に唐・新羅連合軍がまず百済を攻略したため,朝廷は百済救援軍を朝鮮に派遣することになり,救援軍指揮のため,翌661年正月に中大兄皇子は天皇以下とともに筑紫の娜大津(なのおおつ)(博多湾付近)の磐瀬(長津)宮に赴いた。天皇は同5月に朝倉宮に移ったが,同7月にそこで世を去り,遺体は同年中に大和の飛鳥に戻り,667年(天智6)2月に至って,間人皇女とともに大和国高市郡の越智崗上陵(おちのおかのうえのみさざき)に合葬された。
執筆者:関 晃 皇極天皇には《日本書紀》に6首,《万葉集》に3首の歌が伝えられている。《万葉集》の作は〈岡本(おかもと)天皇〉とある作者名がやや不分明で,皇極の夫帝の舒明天皇作とも見られるが,〈飛鳥川(あすかがわ)みなぎらひつつ行く水の間も無くも思ほゆるかも〉の歌を含む《日本書紀》の作はすべて愛孫の建王(たけるのみこ)の死に関しよまれており,哀切の情に満ちた秀歌といえる。
執筆者:阪下 圭八
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594~661.7.24
在位642.1.15~645.6.14 斉明天皇として在位655.1.3~661.7.24
系譜上の第35代天皇。退位後重祚(ちょうそ)して第37代斉明天皇。宝(たから)皇女・天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇と称する。押坂彦人大兄(おしさかひこひとのおおえ)皇子の孫で,父は茅渟(ちぬ)王,母は吉備姫王(きびつひめのおおきみ)。はじめ高向王と結婚したが,のち伯父の舒明天皇の皇后となり,中大兄皇子(天智天皇)・間人(はしひと)皇女・大海人皇子(天武天皇)を生んだ。舒明の死後に即位。在位の間,朝鮮の高句麗・百済(くだら)に政変が生じ,国内でも643年(皇極2)山背大兄(やましろのおおえ)王の変がおこるなど,政情は緊迫した。645年(大化元)蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子殺害の政変(乙巳(いっし)の変)にあたり,同母弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位。のち孝徳の死にあたり,655年(斉明元)重祚した。その後も658年に有間皇子の変があり,661年には百済遺臣の救援のため軍を指揮して九州に赴いたが,病のため筑紫朝倉宮で没した。
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(義江明子)
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女帝。第35代天皇(在位642~645)。のち重祚(ちょうそ)して第37代斉明(さいめい)天皇(在位655~661)。
[編集部]
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