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日羅 にちら

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

日羅 にちら

?-584* 百済(くだら)(朝鮮)の官吏。
日本書紀」によれば,6世紀ごろ大伴金村(かなむら)が百済に派遣した火葦北阿利斯登(ひのあしきたの-ありしと)の子で,百済王につかえた。敏達(びだつ)天皇12年(583)帰国し,国力増強など百済対策について進言したため,同年12月随行した百済人に殺されたという。

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朝日日本歴史人物事典の解説

日羅

没年:敏達12.12.30?(584.2.16)
生年:生年不詳
6世紀の日系の百済官人。九州の地方豪族火葦北国造阿利斯登の子。百済の威徳王代(554~597)に達率の官に任ぜられる。敏達12(583)年に,新羅に滅ぼされた 任那 の復興を図る天皇の召によって百済使と共に来日,河内(大阪府)阿斗の桑市に滞在して天皇の諮問に答えた。その内容は,3年間国力の充実に努め,そののち兵備を整えて,百済から国王あるいは王子,要人を召し,任那復興に協力させるというものであった。また百済が九州を窺うことへの対応についても述べた。百済使は帰国に際して日本に滞在する部下に彼の暗殺を命じ,その年の12月晦日に難波で暗殺されたという。

(若井敏明)

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世界大百科事典 第2版の解説

にちら【日羅】

?‐583(敏達12)
古代百済の宮廷に仕えた官人。父は大伴金村が百済に遣わした九州の地方豪族火葦北国造,刑部靱部阿利斯登(おさかべのゆげいべのありしと),母はおそらく韓人の女。百済での官位は達率で重用されていたが,任那滅亡後の朝鮮政策を協議するため,583年再度の召喚によって帰国し,河内阿斗桑市(あとくわのいち)の地に館を与えられた。民を安んぜしめ国力を充実したうえで,船をつらねて百済の使人に見せ,あるいはいつわって筑紫を与え急襲するなどして百済をしたがえるように建策した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日羅
にちら
(?―573)

倭人系百済官人(わじんけいくだらかんじん)。父は火葦北国造(ひのあしきたのくにのみやつこ)(葦北君(きみ))刑部靫部(おさかべのゆげい)阿利斯登(ありしと)で百済に派遣された(537年?)。官位は第2位達率(だっそつ)。敏達(びだつ)天皇から召致され対外政策を諮問された。人民を安んじ富ましめ国力を充実したうえで船を連ねて威を示せば百済は帰服するであろうことや、百済が九州に領土拡大を謀っているので防御を固め欺かれぬようにすべきことを進言した。そのため同行した百済使の密命で従者に殺された。伝説化され、墓の伝承地は熊本県の津奈木町(つなぎまち)福浜と八代市坂本町久多良木(くたらぎに)ある。[山尾幸久]

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世界大百科事典内の日羅の言及

【坊津[町]】より

…秋目にはソテツ自生地(特天),鑑真上陸地の記念碑がある。【吉成 直樹】
[歴史]
 名称は,百済の僧日羅が創建したと伝える真言宗一乗院が三所に坊舎を建て,上坊,中坊,下坊と呼んでいたことによるという。海外とのつながりが多く,〈唐湊(からのみなと)〉とも呼ばれる。…

※「日羅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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