旧小渕派(読み)きゅうおぶちは

知恵蔵 「旧小渕派」の解説

旧小渕派

田中角栄元首相が政権とりのために結成した田中派(木曜クラブ)は自民党内で最大勢力を維持し続けたが、竹下登元首相の竹下派(経世会)旗揚げ分裂。その竹下派も最大派閥を誇ったものの、小渕恵三、橋本龍太郎らのグループと小沢一郎、羽田孜らのグループに分裂、小沢らは自民党を離れて新たに新生党を結成した。小渕派に衣替えした派閥は当初、自民党第4派閥に転落したが、その後次第に数を増やし、1996年に橋本政権を誕生させ、さらに98年には小渕政権が発足、計4年にわたって政権を握った。しかし2000年、小渕が脳梗塞に倒れ死去したうえ竹下も死去、派閥指導部が交代した。派閥会長には橋本が就任、青木幹雄元官房長官、野中広務元幹事長らによる集団指導体制が組まれた。橋本派が主導して誕生させた森政権の崩壊後に誕生した小泉首相は、橋本派を抵抗勢力と位置づけ、当初は党三役や主要閣僚から排除した。03年の自民党総裁選では橋本派内で異変が生じた。小泉首相に対抗して橋本派の藤井孝男元運輸相が出馬したが、派内では小泉を支持する青木幹雄参院自民党幹事長(当時)と対立候補の擁立を訴える野中広務元幹事長が対立。派内が分裂した。藤井は派閥の所属議員のちょうど半分の50票しか獲得できず、亀井静香らと共に小泉に敗れた。04年の参院選では、橋本派の候補が苦戦し、参院橋本派の勢力は40人から29人に激減した。小泉が所属していた森派は03年総選挙や04年参院選で勢力を拡大し、橋本派に次ぐ第2派閥の位置を確保。05年の総選挙後には自民党内の最大派閥となった。橋本元首相は日本歯科医師連盟からの1億円ヤミ献金を受け取っていたことが明るみに出て、05年総選挙に出馬せずに引退。津島雄二元厚相が派閥会長に就いて派閥は「津島派」となった。橋本元首相は06年7月に死去した。ポスト小泉を争う06年の総裁選では津島派の額賀福志郎防衛庁長官が出馬の動きを見せたが、派内の反対で立候補できなかった。津島派は自主投票となり、派閥の弱体化を露呈した。

(星浩 朝日新聞記者 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

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