経世会(読み)ケイセイカイ

デジタル大辞泉 「経世会」の意味・読み・例文・類語

けいせい‐かい〔‐クワイ〕【経世会】

自由民主党にあった派閥竹下派小渕派。昭和62年(1987)に竹下登金丸信らが田中派大多数メンバーを率いて独立して結成。党内最大派閥として影響力を発揮したが、平成5年(1993)に小沢一郎らが離脱して縮小。同8年に平成研究会に改称した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「経世会」の意味・わかりやすい解説

経世会
けいせいかい

自由民主党竹下派の名称。1985年(昭和60)、田中角栄(たなかかくえい)を領袖(りょうしゅう)とする田中派内で創政会(1986年解散)として旗揚げし、1987年7月に結成した。同年11月に会長の竹下登(たけしたのぼる)が首相に就任したが、リクルート事件にからみ、わずか1年半で退陣。その後元副総理の金丸信(かねまるしん)(1914―1996)が会長に就き、宇野宗佑(うのそうすけ)、海部俊樹(かいふしき)、宮沢喜一各政権を通じて党・内閣を実質的に支配した。しかし、1992年(平成4)10月、東京佐川急便事件にからんで会長の金丸信が衆院議員を辞職したのをきっかけに、グループ内に対立が生じ、同年12月、小渕恵三(おぶちけいぞう)らの「小渕派」と羽田孜(はたつとむ)、小沢一郎らの「羽田派」に分裂。長年続いた「田中派支配」「竹下派支配」に終止符を打った。1993年6月には「羽田派」が自民党を離党し新生党を結成、同年8月、自民党は38年ぶりに政権を失うことになった(1994年6月与党に復帰)。その後、新進党結成と分裂をへて、羽田孜は民主党に入り、小沢一郎は自由党を結成したが、2003年9月、自由党を解散し、民主党に合流した。一方、「小渕派」は、1994年に経世会の名称を平成政治研究会、のち平成研究会と変更した。

[橋本五郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「経世会」の意味・わかりやすい解説

経世会
けいせいかい

自由民主党派閥。1987年7月竹下登を中心として結成された。1985年に竹下が木曜クラブ(田中派)内の圧倒的多数の支持を得て結成した政策研究集団,創政会が母体。竹下は,党内最大派閥ながら独自に総裁候補を擁立できなかった田中派内の不満を巧妙に吸収し,それを基礎に総裁選挙に立候補,1987年10月に中曽根康弘から後継総裁に指名された。1989年に竹下はリクルート事件で内閣総理大臣を辞職したが,その政治力は温存され,宇野宗佑内閣,海部俊樹内閣の成立過程でも強い影響力を発揮した。しかし,1991年6月に東京佐川急便事件が表面化,それに伴って発覚した皇民党事件,不正献金による金丸信副総裁の辞任など不祥事が続き,派内の主導権争いが起こった。小渕恵三を後継会長に推す竹下らに反発した小沢一郎羽田孜らが,1992年に改革フォーラム21(→新生党)を結成,離脱したことで,経世会は弱体化した。その後,小渕が派閥を継承し,1994年に平成政治研究会,さらに平成研究会へと改称した。

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