小沢一郎(読み)おざわいちろう

百科事典マイペディア 「小沢一郎」の意味・わかりやすい解説

小沢一郎【おざわいちろう】

政治家。岩手県生れ。慶大卒。日大大学院在学の1969年,自由民主党より衆議院議員に当選。1985年第2次中曾根康弘内閣自治大臣兼国家公安委員会委員長。1989年海部俊樹内閣発足に伴い自民党幹事長に就任。1993年自民党を離党し,羽田孜(つとむ)らと新生党を結成,非自民党勢力を結集して細川護煕(もりひろ)内閣を誕生させた。1994年6月羽田政権の崩壊後,旧公明党民社党日本新党などと連携し12月に新進党を結成し幹事長となる。この間もっぱら裏舞台で政局を主導してきたが,1995年党首公開選挙で第2代党首となる(1997年12月再選)。1996年羽田,1997年細川が新進党を離党するなど,党内対立,内紛が続いたため,1997年12月新進党解党に踏み切り,1998年1月小沢派で固めた自由党を結成,初代党首となる。自由党は1999年1月自由民主党と連立政権を組んだが,自らの入閣は固辞した。2000年4月には連立が破綻し,自由党の反対派は保守党を結成した。2003年9月,衆議院選挙を目前にして自由党の小沢党首は民主党菅直人代表と合併に同意し,民主党に加わった。2006年4月,民主党代表となる。2007年7月の参院選挙で民主党は60議席を獲得,第一党となり,2008年無投票で代表再選,次回衆議院選挙での政権交代に強い意欲をみせていたが,政治資金規制法違反の疑惑で公設秘書が逮捕され,2009年5月代表を辞任。後継の鳩山由紀夫代表のもとで代表代行として,2009年8月の衆議院総選挙で民主党を大勝に導き,念願の政権交代を果たした。9月に発足した鳩山由紀夫内閣には入閣せず,民主党幹事長に就任。自らの政治資金に関連して検察の事情聴取を受け,検察は不起訴としたが,検察審査会が2度にわたって〈起訴相当〉とした。検察審査会の2度目の審査中の2010年6月,鳩山由紀夫首相の辞任・民主党代表辞任とともに自らも幹事長を辞任した。9月の民主党代表選挙に立候補,菅直人と争ったが敗れた。2011年1月,政治資金規制法違反容疑(陸山会事件)で検察審査会によって強制起訴された。これを受けて民主党常任幹事会は,小沢の〈党員資格停止〉を決定した。2012年4月,東京地裁は無罪判決を示した。これを受けて〈党員資格停止〉は解除されたが,検察審査会の検察担当弁護士は東京地裁の判決を不服として控訴。11月東京高裁は地裁判決を支持,検察は控訴を断念して無罪が確定した。しかしこの裁判の間に民主党内の小沢の求心力は確実に低下,東日本大震災・福島第一原発事故という戦後政治を揺るがす大事件に際しても小沢は政治力を発揮することができず,2012年7月,野田内閣の消費税増税に反対して,小沢グループを率いて,ついに民主党を離党,新たに,脱原発・消費税増税反対をかかげて,〈国民の生活が第一〉を結党した。さらに小沢は,11月,卒原発を提唱する嘉田由紀子滋賀県知事が日本未来の党を結成する動きに同調して,〈国民の生活が第一〉をこれに合流させ,日本未来の党として,2012年12月の衆議院選挙に臨んだ。しかし,原発は争点化せず,選挙の準備不足も重なって結果は惨敗に終わり,旧〈国民の生活が第一〉は議席を大きく減らした。この結果を受けて嘉田は離党し新・日本未来の党を結成,小沢らは〈生活の党〉に党名を改称し小沢が代表に就任した。2012年12月の衆議院選挙では,自民党が大勝,わずか3年余で再び政権を奪還,民主党は大敗,日本維新の会やみんなの党といった新党が躍進した。小沢にとって二重の政治的挫折となった。2014年12月の衆議院選挙で生活の党は2名の当選者しか出せず,国会における政党要件を失うことになり,小沢は無所属山本太郎参院議員と合流し,名称を〈生活の党と山本太郎となかまたち〉(代表小沢一郎)と変更,政党交付金受領可能となった。
→関連項目岡田克也嘉田由紀子菅直人内閣野田佳彦野田佳彦内閣鳩山由紀夫鳩山由紀夫内閣細野豪志

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小沢一郎」の意味・わかりやすい解説

小沢一郎
おざわいちろう
(1942― )

政治家。岩手県生まれ。1967年(昭和42)慶応義塾大学卒業。1969年自由民主党(自民党)の代議士であった父佐重喜(さえき)(1898―1968)の死去に伴い、衆議院旧岩手2区から初当選。小選挙区制導入後は岩手4区(のち区割変更により岩手3区)に移り、以来2021年(令和3)の時点で連続18回当選。当初は自民党に所属。1985年第二次中曽根康弘内閣(なかそねやすひろないかく)の自治相として初入閣。竹下派経世会)結成のときには中心となって活躍した、いわゆる「七奉行」の一人であった。1989年(平成1)自民党幹事長に就任。1990年の総選挙を勝利に導いたが、翌年の東京都知事選で推薦した候補者が敗北し幹事長を辞任した。1992年の竹下派分裂後は羽田孜(はたつとむ)を擁して羽田派を結成。1993年6月自民党を離党して新生党を結成し、代表幹事に就任した。同年、日本新党、日本社会党などと連立して細川護熙内閣(ほそかわもりひろないかく)を誕生させ、自民党から政権を奪取した。しかし、1994年6月に連立政権は崩壊。1994年12月には新進党を結成し幹事長となり、翌年の党首選では羽田を破って2代党首となった。1996年10月の総選挙で政権奪還を目ざしたが失敗。翌年12月新進党を解党し、1998年1月、自由党を結成した。1999年1月に自民党と連立政権を発足させ、さらに同年10月には自由・自民・公明による三党連立政権を発足させた。しかし政権運営をめぐり小沢と自民・公明とが対立し、2000年(平成12)4月に自由党は連立を離脱。2003年9月には民主党との合併のため自由党を解散し、民主党所属となった。2006年4月前原誠司(まえはらせいじ)(1962― )代表の辞任により民主党代表に就任。同年9月の代表選では無投票で再選された。2007年4月の統一地方選挙で議席数を大幅に増やし、さらに7月の第21回参議院通常選挙では60議席を獲得して参議院第一党となり、野党全体で過半数を制した結果、衆議院と参議院で多数派が異なる、いわゆる「ねじれ国会」状態をつくりだした。9月25日の首班指名選挙では、参議院で福田康夫(ふくだやすお)を抑えて首相に指名された(憲法の規定により衆議院で指名された福田が首相となった)。11月に福田首相との間で連立の話が浮上したが、民主党内の反対でこれを拒否、一度は代表辞任を表明したが結局は続投した。総選挙での政権交代を目ざしていたが2009年3月、西松建設からの献金疑惑で公設秘書が逮捕され、同年5月、民主党代表を辞任。その後の代表選では幹事長であった鳩山由紀夫(はとやまゆきお)を支持して勝利に導き、自身は選挙担当の代表代行に就任した。2009年8月の総選挙では民主党を圧勝に導き、年来の主張であった政権交代を実現。総選挙後は幹事長に就任。しかし、献金疑惑問題を完全には払拭(ふっしょく)できないまま、2010年6月に鳩山首相の辞任に伴い、幹事長を辞職した。

 2010年7月の参議院議員選挙で民主党が大敗して民主党内で菅直人(かんなおと)代表への批判が高まるなか、鳩山由紀夫前首相の支持を取りつけて9月の民主党代表選に出馬した。国会議員票と地方議員票ではほぼ拮抗(きっこう)する票を集めたが党員票を59票しか獲得できず菅代表に敗れた。この間4月には検察審査会が政治資金規正法違反で小沢一郎を不起訴とした東京地検特捜部の決定は不当であるとして「起訴相当」の議決を行い、10月にふたたび「起訴相当」としたことで小沢一郎は強制起訴されることになった。著書に『日本改造計画』(1993)がある。

[伊藤 悟]

『五百旗頭真・薬師寺克行・伊藤元重編集『90年代の証言 小沢一郎――政権奪取論』(2006・朝日新聞社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小沢一郎」の意味・わかりやすい解説

小沢一郎
おざわいちろう

[生]1942.5.24. 岩手
政治家。 1967年慶應義塾大学経済学部卒業後,日本大学大学院に進むが,在学中の 1969年,亡父佐重喜 (元建設大臣) のあとを継ぎ,27歳で衆議院議員に初当選。田中政権発足時には,1年生議員ながら力をふるい,田中角栄の"秘蔵っ子"といわれる。創政会結成に参画,以降竹下政権づくりに尽力。政調副会長,総務局長,衆議院運営委員長,国家公安委員長,自治大臣を経て,1987年竹下内閣の副官房長官,1989年自由民主党幹事長に就任。 1991年の東京都知事選挙敗北の責任をとって幹事長を辞任。 1992年竹下派分裂に伴って,羽田孜とともに羽田派を結成。 1993年衆議院解散を機に自民党を離党,新生党結成に参加,代表幹事となり,総選挙後,反自民の力を結集し細川護煕 (日本新党党首) を擁立し 55年体制に幕をおろす。社会党,新党さきがけと袂を分かち野に下るが公明党,民社党,新生党などが大同団結し,1994年新進党となり,1995年党首選挙で羽田に圧勝する。しかし,細川,羽田などの有力議員が次々と離党し 1997年末をもって解散。 1998年1月新たに自由党を旗揚げし,党首に就任した。 2003年自由党と民主党が合併,民主党に合流した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小沢一郎」の解説

小沢一郎 おざわ-いちろう

1942- 昭和後期-平成時代の政治家。
昭和17年5月24日生まれ。小沢佐重喜の長男。昭和44年自民党から衆議院議員に初当選(当選16回)。田中派に属し,のち竹下登を首相に擁立した。平成元年党幹事長。4年竹下派の分裂で羽田(はた)派を,のち新生党,新進党を結成。各党で中心的存在となり,細川,羽田両連立内閣を実現させる。7年新進党党首,10年自由党を結成し,党首。15年民主党に合流。18年代表となり,20年3選をはたしたが,21年辞任。21年総選挙で圧勝した民主党の幹事長となる。しかし,22年米軍普天間飛行場の移設問題や政治とカネの問題で首相を辞任した鳩山由紀夫とともに,幹事長を辞任。24年野田政権がすすめる消費税増税および社会保障・税一体改革関連法案に反対し離党届を提出したが,民主党を除籍処分となる。同年「国民の生活が第一(略称は生活)」を結党して代表となる。同年同党は嘉田由紀子の「日本未来の党」に合流。岩手県出身。慶大卒。

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世界大百科事典(旧版)内の小沢一郎の言及

【55年体制】より


[55年体制の終焉とその後]
 さらに,80年代末になると,政治腐敗の噴出,派閥政治の横行,無党派層の増大といった55年体制の制度疲労の徴候がますます顕在化し,政治改革への声が加速度的に増幅されてきた。このような事態を背景にして起こったのが〈新党ブーム〉で,まず登場してきたのが,92年5月の細川護熙をリーダーとする日本新党であり,これに続く動きが,93年6月の武村正義らの自民党からの離党者による新党さきがけの,またその数日後の小沢一郎らのもう一つの自民党離党者グループによる新生党の,結成である。そして,その1ヵ月後に行なわれた総選挙で,自民党は,第一党の地位は保ったものの過半数の議席を得ることができず,非自民勢力の結束の前に,ついに38年間維持しつづけた政権の座を下りた。…

※「小沢一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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