日本大百科全書(ニッポニカ) 「星野勘左衛門」の意味・わかりやすい解説
星野勘左衛門
ほしのかんざえもん
(1642―1696)
尾張(おわり)藩士で堂射の名射手。寛永19年生まれ。名を茂則(しげのり)といい、浄林(じょうりん)と号した。禄高(ろくだか)500石、のち800石で弓頭(ゆみがしら)となる。尾州竹林派弓術を長屋六左衛門忠重に師事し印可。1660年(万治3)4月4日京都三十三間堂において通り矢数5265本(惣矢数7772射)、1661年(寛文1)4月22日3680本(5853射)、同年5月14日5508本(1万0017射)、寛文3年4月11日5851本(9554射)、同年5月28日6666本射越(いこし)(1万0125射)を記録、さらに寛文9年5月2日8000本(1万0542射)の大記録により射越(日本一のこと)を称し、尾州竹林派星野系の祖となった。彼はまた伊勢の御宝庫にあった『射法本紀(しゃほうほんぎ)』を世に出すとともに竹林派の教書『本書(ほんじょ)』『中学集』の再註を行った。1693年(元禄6)6月船奉行(ふなぶぎょう)となり、元禄9年5月6日55歳で没。戒名は大忠院英誉射講浄林居士。門人には星野則春(のりはる)(茂則の子)、江戸竹林派の祖渡邊寛(ひろし)、京都在の柴田知利(ともとし)、津軽(つがる)藩士(初め紀伊(きい)藩士)の本間匡隆(まさたか)、堂射の射手間宮市野右衛門などがいる。
[入江康平]
『有松庵著『芳躅集』(『名古屋叢書25巻』所収・1964・名古屋市教育委員会)』▽『小野崎紀男編著『弓道人名大事典』(2003・日本図書センター)』