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星野勘左衛門 ほしの かんざえもん

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

星野勘左衛門 ほしの-かんざえもん

1642-1696 江戸時代前期の弓術家。
寛永19年生まれ。尾張(おわり)名古屋藩士。長屋六左衛門に日置流(へきりゅう)竹林派の弓術をまなび,弓役となる。寛文2年京都三十三間堂の通し矢で,6666本をとおして天下一となり,9年8000本をとおし矢数を更新した。弓矢奉行,船奉行をつとめた。元禄(げんろく)9年5月6日死去。55歳。名は茂則。号は浄林。
【格言など】まだやれるが,後につづく者の気をくじかぬために,八千本でやめました

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

星野勘左衛門

没年:元禄9.5.6(1696.6.5)
生年:寛永18(1641)
江戸前期の弓術家。通し矢競技において長く天下一の名を保持した。星野則等の3男で,尾張(名古屋)藩士。長屋忠重に竹林派弓術を学び,尾張藩主徳川光友に仕え,弓頭として800石を得た。万治3(1660)年以来,京都三十三間堂の通し矢に6回挑戦し,寛文2(1662)年5月通し矢6666本(総矢1万125本)を記録して初めて天下一となり,同9年5月には通し矢8000本(総矢1万542本)を得て記録を更新した。とりわけ9年のときは「後に続く射手の為に,猶六時間も残して引き揚げ酒宴を催した」とされ,その力量は抜群だった。<参考文献>稲垣源四郎編『日本の武道』

(藤堂良明)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

星野勘左衛門
ほしのかんざえもん
(1642―1696)

尾張(おわり)藩士で堂射の名射手。寛永19年生まれ。名を茂則(しげのり)といい、浄林(じょうりん)と号した。禄高(ろくだか)500石、のち800石で弓頭(ゆみがしら)となる。尾州竹林派弓術を長屋六左衛門忠重に師事し印可。1660年(万治3)4月4日京都三十三間堂において通り矢数5265本(惣矢数7772射)、1661年(寛文1)4月22日3680本(5853射)、同年5月14日5508本(1万0017射)、寛文3年4月11日5851本(9554射)、同年5月28日6666本射越(いこし)(1万0125射)を記録、さらに寛文9年5月2日8000本(1万0542射)の大記録により射越(日本一のこと)を称し、尾州竹林派星野系の祖となった。彼はまた伊勢の御宝庫にあった『射法本紀(しゃほうほんぎ)』を世に出すとともに竹林派の教書『本書(ほんじょ)』『中学集』の再註を行った。1693年(元禄6)6月船奉行(ふなぶぎょう)となり、元禄9年5月6日55歳で没。戒名は大忠院英誉射講浄林居士。門人には星野則春(のりはる)(茂則の子)、江戸竹林派の祖渡邊寛(ひろし)、京都在の柴田知利(ともとし)、津軽(つがる)藩士(初め紀伊(きい)藩士)の本間匡隆(まさたか)、堂射の射手間宮市野右衛門などがいる。[入江康平]
『有松庵著『芳躅集』(『名古屋叢書25巻』所収・1964・名古屋市教育委員会) ▽小野崎紀男編著『弓道人名大事典』(2003・日本図書センター)』

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