日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹林派」の意味・わかりやすい解説
竹林派
ちくりんは
竹林坊如成(ちくりんぼうなおしげ)(「じょせい」とも)という僧侶(そうりょ)が創始した弓術流派で、正しくは日置(へき)流竹林派という。竹林派は伊賀(いが)国の日置弥左衛門範次(のりつぐ)を源流としているが、その人物像については諸説があり不明な点が多い。竹林坊は近江(おうみ)国蒲生(がもう)の出身で、初め北村氏を名のっていた。その後竹林坊と名のる真言の僧侶となり、豪族佐々木氏の一族であった吉田家の菩堤寺(ぼだいじ)の僧となったという。もともと弓術に秀でた才能があったことと、吉田重賢(しげかた)が日置弾正正次(だんじょうまさつぐ)からその伝を受け一流を開いた人物であるとすることから、弓術に関してなんらかの影響を受けたものと推測できる。その後還俗(げんぞく)し、1551年(天文20)弓削繁次(ゆげしげつぐ)が三島明神社に納めていた弓書から日置流の印可を受け竹林派を称した。尾張(おわり)清洲(きよす)城主松平忠吉(ただよし)(徳川家康の四男)に仕え、その家臣の弓術指導にあたり1616年(元和2)没。如成の跡を継いだ次男弥蔵貞次(やぞうさだつぐ)は尾張藩主徳川義直(よしなお)に仕え、弓術師範を勤めた。竹林派はとくに堂射射法に優れ、これが紀州藩へも伝えられ、堂射の記録争いで本家尾張と激烈な競争が行われたことは有名である。なお竹林派は大和郡山(やまとこおりやま)、赤穂(あこう)、讃岐(さぬき)、越前(えちぜん)大野、江戸などにも広く伝播(でんぱ)した。
[入江康平]