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通し矢 とおしや

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

通し矢
とおしや

堂射ともいう。江戸時代に行われた弓道競技の一つ。京都三十三間堂の西側の縁,天井と床とで区切られた 66間 (約 120m) の距離を射通し,その射通した矢数を競った。陰暦4~5月の晴天の日を選んで行われたが,寛永 19 (1642) 年には江戸浅草 (のち深川に移転) にも射芸練習のために三十三間堂が建立され,ここでも盛んに行われた。百射,千射,朝から日暮れまで行う小矢数 (日数) ,日暮れ (暮六つ) から夜はかがり火を焚いて翌日の日暮れまで行う大矢数などがあった。その年の最高位の者を「総一」あるいは「弓の天下」などといってその額を堂にかけた。最高記録は貞享3 (86) 年に紀州藩士和佐大八郎が記録した総矢数1万 3053本のうち通し矢 8133本である。通し矢の矢数にちなんで早く多くの句を吟じる俳諧を矢数俳諧という。

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デジタル大辞泉の解説

とおし‐や〔とほし‐〕【通し矢】

遠くの的を矢で射通すこと。また、その矢。
平安末期、京都の三十三間堂で始められた弓術。三十三間堂裏側広縁の南端から北端までの66間(約120メートル)を射通すもの。室町末期から盛んになり、江戸時代に記録更新の矢数(やかず)競技となった。堂射。 夏》大矢数(おおやかず)

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百科事典マイペディアの解説

通し矢【とおしや】

江戸時代に京都の三十三間堂(蓮華王院)などで行われた射技の一種。三十三間堂の西側の縁の南端から北端までの66間を射通す矢数を競う。大矢数,日矢数(小矢数),千射,百射などの種類があり,大矢数は暮六つから始めて1昼夜,夜は篝火(かがりび)をたいて行う。

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世界大百科事典 第2版の解説

とおしや【通し矢】

京都三十三間堂(蓮華王院),のちには江戸深川の三十三間堂でも行われた射技の一種。堂射(どうしや),差矢(さしや),堂前(どうまえ)ともいう。三十三間堂の縁上で,距離33間(実質的には66間,約120m)を射通し,成功した矢数を競った。平安末期,保元の乱のころ大和国の蕪坂源太基重が弓射を試みたのが通し矢の最初というが,伝説の域を出ない。その後1606年(慶長11)正月,尾張藩士浅岡平兵衛が51本の通し矢を行ったことが記録に残っており,しだいに盛んになった。

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大辞林 第三版の解説

とおしや【通し矢】

普通より遠い距離まで矢を射てとどかせること。また、その矢。特に江戸時代、京都三十三間堂の軒下で一昼夜にわたって行われた大矢数おおやかずをいう。通り矢。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

通し矢
とおしや

堂前(どうまえ)、堂射ともいう。京都三十三間堂(蓮華(れんげ)王院)の西側外縁を南から北に向かって射通すもので、のちにこれに模して江戸・深川(初め浅草)にも通し矢専用の堂がつくられた。そのほか東大寺大仏殿西回廊でもこれを行った記録がある。
 保元(ほうげん)年間(1156~59)に行われたとする記録がもっとも古く、天正(てんしょう)年間(1573~92)の記録を嚆矢(こうし)とする説もある。いずれにしてもこれらの時代の通し矢は、用具も射法も実戦を前提としたものであり、江戸時代に入ってからのように第三者との記録争いを目的とするものでなく、自分自身の技量を試みることに主眼があった。江戸時代以降の通し矢は完全に競技化され、同時代初期から中期にかけて全盛を極めたが、記録の頭打ち、武士階級の経済状態の悪化、士風の変化などによりしだいに興味が失われ衰退していった。[入江康平]

競技の概要

縁幅7尺3寸(約2.2メートル)、天井までの高さ2間4尺(約5メートル)、長さ66間(約120メートル)の制限された空間を、左右上下いずれにも触らず射通すもので、種目は距離と時間と矢数の組合せにより、京都では11種目、江戸・深川では23種目が行われた。なかでも66間を一昼夜かけて射続け、その通り矢数を競う「全堂大矢数」は通し矢競技の華であり、この種目で日本一になることこそが、通し矢の真の覇者として高く評価されたのである。
 この「全堂大矢数」を刊行された記録簿である『矢数帖(やかずちょう)』にみると、1606年(慶長11)の浅岡平兵衛の51筋を最初とし、延べ41名の射手が記録を更新している。記録争いの末期は紀州藩と尾州藩との間で激烈を極めたが、1686年(貞享3)紀州藩の和佐大八郎(わさだいはちろう)が8133本(惣矢数1万3053射)の大記録を樹立し、1669年(寛文9)尾州藩の星野勘左衛門(ほしのかんざえもん)の8000本(惣矢数1万0542射)を破り、以後今日に至るまで、だれもこの記録を破ったものはいない。
 通し矢は安座の姿勢で行い、矢のつがえ方、手の内、引取り、離れなどに独特の方法があり、弓具も弓はやや短めの船底型とし麦粒(むぎつぶ)矢を使用、(ゆがけ)は疲労や痛み防止のため堅帽子の四つが考案され、また押手(おして)にもくふうが凝らされるなど、記録向上のためさまざまな改良が加えられた。通し矢競技は、遠射、速射、耐久射の高度な射術と、それを支える強靭(きょうじん)な体力と精神力が要求されるため、幼少年期より日夜厳しいトレーニングが行われた。通し矢競技の内容とその盛衰は、弓道史上はもちろんのこと日本の体育・スポーツ史研究上興味ある諸問題を含んでいる。[入江康平]

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世界大百科事典内の通し矢の言及

【弓道】より

…正次の日置流はその後吉田重賢の吉田流にすべて受け継がれ,さらに出雲(いずも)派,雪荷(せつか)派,道雪(どうせつ)派,印西(いんさい)派,大蔵(おおくら)派などに分派し,各派からは優秀な射手が輩出し技を競った。また日置流傍系で吉田流の影響を強く受けた竹林(ちくりん)派は尾州,紀州両藩でおおいに繁栄し,とくに江戸時代の通し矢競技にその技を競った。 江戸時代に入ると弓術は実戦的性格を稀薄にし,一般には的前(まとまえ)を中心とする武士の心身鍛錬の具として行われるようになった。…

【矢数俳諧】より

…俳諧形式。京都の蓮華王院三十三間堂で行われた矢数(通し矢)の武技に模し,一昼夜24時間以内にできるだけ数多くの句数を詠み競うこと,またその俳諧をいう。通し矢は1662年(寛文2)に尾張藩士星野勘左衛門が6600本,68年に紀州藩士葛西団右衛門が7000余本を記録したが,翌年再び星野が挑んで総矢1万542本中通し矢8000余本の新記録を樹立,総一(天下一)を称した。…

【蓮華王院】より

…創建以来,多くの荘園を領したが,中世末には寺領収入も減少して寺運も衰え,北隣に豊臣秀吉が方広寺大仏を造営したときその支配下に入り,さらに豊臣家滅亡後は妙法院の管理下に移されて,今日に至っている。有名な三十三間堂の〈通し矢〉は本堂の裏の回縁で行われ,66間を射通す矢数の多少を競うもので,とくに江戸時代に盛行し,1686年(貞享3)4月27日,紀州藩の佐和大八郎は1万5000本を射て,そのうち8133本を射通す記録をつくったという。【藤井 学】
[文化財]
 本堂は千体仏を安置するために桁行35間,梁間5間のきわめて細長い平面をもち,うち四周1間分は庇間である。…

※「通し矢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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