晩成社農場(読み)ばんせいしやのうじよう

日本歴史地名大系 「晩成社農場」の解説

晩成社農場
ばんせいしやのうじよう

十勝川と札内さつない川の合流点西方、現在の旧帯広きゆうおびひろ川流域を基点として開かれた農場。帯広市域開墾嚆矢とされる。晩成社は明治一五年(一八八二)静岡県那賀なか大沢おおさわ(現松崎町)で依田勉三とその兄弟佐二平・善吾らにより北海道開墾を目的として結成された。晩成社の当初の方針は政府から土地の無償提供を受けて社員(耕夫)を移住させ、開墾・牧畜耕作造林を行い、一五年後には一万町歩を開くというもので、物品・地所建物の売買と賃借、運輸、社員への資金および農具などの貸付けも業務とした。社員は社から土地を借りて開墾・耕作し、新墾地に対しては開墾料が支払われた。ただし開墾料は社の預りとされた。また社員は社業の牧畜の労働に従事して給料を受取り、入植三年目からは収穫の二割を社へ納めることとなっていた(帯広市史)。発起人代表であった勉三はすでに明治一四年に北海道を踏査しており(北海紀行)、同一五年には同社幹事で友人の鈴木銃太郎とともに日高国・十勝国を踏査して開墾予定地を下帯広村に定め、オベリベリ一帯一〇〇万坪の開墾許可と下付を願出た。九月に開墾は許可されたが、一二月に至り土地の下付願は却下されている。銃太郎はそのまま下帯広村で越冬。同一六年五月には勉三、銃太郎の義弟渡辺勝らと静岡県人を中心とする移民の計一三戸・二七人が下帯広村に到着した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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