曾我部庄(読み)そがべのしよう

日本歴史地名大系 「曾我部庄」の解説

曾我部庄
そがべのしよう

宗我部そがべ(和名抄)に成立した荘園と思われ、現在曾我部の名を残す一帯であろう。左大臣藤原頼長の所領であったが、保元の乱後、没官され後院領となった。「兵範記」保元二年(一一五七)三月二九日条に引く同月二五日付太政官符の「故左大臣領」のうちに「丹波国弐箇処 曾我部庄、土師庄」があり、「件庄牧等、没官先畢、宜為当院領、於官物者、弁済国庫、至地利者、徴納院家」と記される。その後「吾妻鏡」暦仁元年(一二三八)一〇月一一日条に「丹後国曾我部庄者、依後白河院法花堂領、不地頭、仍可止守護使入部、夜討以下事出来之時者、庄家糺明犯否、可渡其身之由、今日被行前武蔵守、故右幕下御遺命、殊被彼法華堂事之間、令申行給之云々」とみえ、当荘には地頭が設置されず、守護使入部が停止されていた。


曾我部庄
そがべのしよう

興福寺雑役免田。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の城下東しきのしもひがし郷に「曾我部庄七町六反小 不輸田二町六反小」とある。不輸免田の内訳と条里(括弧内は坪数)は現御所ごせ市にあった巨勢こせ寺寺田一町七段が一四条四里(一)、一六条三里(二)、現奈良市のれんじよう寺寺田九段小が一五条三里(一)である。公田畠五町の条里は一四条三里(五)・四里(二)、一五条四里(一)である。以上によると、曾我部庄の所在は現武蔵むさし町辺りにおおむね比定されるが、散在性荘園である。


曾我部庄
そがべのしよう

古代の多紀たき郡八郷の一つ宗部そがべ(和名抄)に成立したとみられる庄園。永治元年(一一四一)八月二五日の鳥羽院庁下文(九条家文書)によって立庄された歓喜光かんきこう(現京都市左京区)領多紀庄の所在地として「多紀郡宗我部并草南条両郷」とみえる。文安三年(一四四六)一〇月八日の細川持春山林等寄進状および同年の太寧寺惟忠置文(ともに太寧寺文書)などによれば、奥畑の太寧おくはたのたいねい寺は中世には「多紀郡曾峨部庄神護山太寧寺」とよばれ、嘉吉三年(一四四三)細川持春が亡父満国の菩提を弔うために開創し、惟忠を開山としたとあり、持春は五〇石と山林を寄進している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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