月瀬村(読み)つきぜむら

日本歴史地名大系 「月瀬村」の解説

月瀬村
つきぜむら

[現在地名]日南町上石見かみいわみ

大倉おおくら(一一一二メートル)の南麓を大きく弧を描くように西流する石見川右岸に位置し、西は友広ともひろ村。戦国期、毛利方が当村の氏神に放火した際、神体が月影のように川瀬に神威の光を発して対岸に飛移ったのが村名由来とされる(文久二年「上石見郷中神社棟札写村々由緒書上帳」多田家文書)正保国絵図には駒崎こまざき村とともに「月ケ瀬駒崎村」と記される。元禄一四年(一七〇一)駒崎村に合併するが、下札は個別に下された(藩史)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高九〇石余。本免は五ツ七分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高八〇石余、竈数一七。「伯耆志」では林四五町三反、家数一六・人数九四、義倉一・社倉一があった。

月瀬村
つきぜむら

[現在地名]柿木村大野原おおのばら

柿木村の東、吉賀よしが川上流の村。川に沿って安芸廿日市あきはつかいち街道が柿木村・当村を経て六日市むいかいち(現六日市町)へ通じていた。明治四年(一八七一)の万手鑑は当村・奥木部谷おくきべだに村・下木部谷しもきべだに村・大野原村を木部谷四ヵ村としてあげ、当村の古高三七石余、寛永一四年(一六三七)の検地高五三石余、明治四年の総高七七石余・反別一五町五反余、家数一一(本百姓九・小百姓二)・人数四四、牛一〇、三嶋みしま神社、紙漉舟一〇、鉄砲三。

月瀬村
つきぜむら

[現在地名]根羽村月瀬

矢作やはぎ川の上流根羽川に沿う、下伊那郡最南西端の山村

古くは隣村根羽村と同じく三州足助さんしゆうあすけ郷に属し(長野県町村誌)、室町時代に至って関氏・下条氏・武田氏の支配下にあった。

江戸時代中期に成立した「信州伊奈郷村記」には、当村南端愛知県境に近い杣路そまじ峠について「是は伊奈之要害三河国を一目に見下す狼煙山也、此見通波合之蛇峠也、信玄御代狼煙役月瀬民部也」と武田氏が三河方面へ進出した頃に狼煙台が設置され、月瀬民部なる者が狼煙役を務めていたことが記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報