大野原村(読み)おおのはらむら

日本歴史地名大系 「大野原村」の解説

大野原村
おおのはらむら

[現在地名]大野原町大野原

現大野原町北部平坦部のほぼ中央に位置する。平田与一左衛門を中心とした上方商人による、近世でも最も早い時期に属する町人請負新田を基礎に成立した集落。当村開拓の前提として井関いせき池が築造された(→井関池丸亀藩山崎氏から開発の許可を得てまもない寛永二〇年(一六四三)六月には、入植百姓の募集条件を決定している。入植百姓には一人につき七反をめどに耕地を渡す。耕牛馬や農具・種籾などは必要に応じて貸与する。肥料代も一反について銀五匁をめどとして貸与する。開墾中入植百姓には一日当り米一升を貸与する。これらの貸与の金品は翌二一年の収穫のうちから一割五分の利子とともに返済させる。ただしこの年は百姓からは年貢・諸役はもとより、平田氏ら開発商人の収益となる作徳米も徴収しない。同年から以降一四年間は収穫の四割を平田氏らに上納する。このうち年貢分は百姓が直接藩に納める、という内容であった(同二〇年「讃州之万談合究帳」平田文書)。入植した百姓は一般の本百姓とは異なり、いわば平田氏らの小作百姓であるが、年貢納入の直接責任があるという点では本百姓的で、後代の公的な文書でも「本百姓」と表記される。

寛永二一年には五七軒が早くも入植している。讃岐の者も少なくないが、約半分が摂津・河内・伊賀など上方出身者であった。


大野原村
おおのばるむら

[現在地名]浮羽町三春みはる

山北やまきた村の東、原口はりぐち村の南に位置する。筑後川沿いの往還には一里塚があり、豊後国境には「従是西南筑後領」の石碑があった(嘉永元年「廻村書留」新有馬文庫)。康治三年(一一四四)正月一一日の大石・山北封并杷木庄司等解案(東大寺文書/平安遺文六)によれば、肥前前司配下の軍兵が大挙して大石おおいし封内の大野・袋野ふくろのに乱入し、封民らに暴行・狼藉を行った。同解案には「九日戌時許、放火狩庭大野処」とあるほか、「件大野往古寺領中心也(中略)以件大野窃雖令狩猟、不取□地利」とあり、当地は狩野でもあった。この時の乱入で放火・略奪などの被害を受けた在家は大野おおのが五家、袋野が一〇家であった。


大野原村
おおのばらむら

[現在地名]柿木村大野原

月瀬つきぜ村の南東にある吉賀よしが川上流の村。木部谷きべだに川が当地で吉賀川に合流する。中組なかぐみ向津こうず殿明とのみよう伊豆師いずしの四集落がある。吉賀川に沿って安芸廿日市あきはつかいち街道が桟敷さじき(現六日市町)へ通じていた。正保国絵図に村名がみえ、高三〇一石余。明治四年(一八七一)の万手鑑では古高一九五石余、寛永一四年(一六三七)の検地高二三五石余、明治四年の総高三五三石余、家数四三(本百姓三一・小百姓一〇・社家一・医師一)・人数一七六、牛二七、米蔵一、社二(竜水山三島神社・愛宕社)、小社二、紙漉舟二一、鉄砲四。元禄年間(一六八八―一七〇四)に南隣の田丸たまる(現六日市町)の斎藤勘左衛門が殿名とのみよう(殿明)に用水を引いたという(吉賀記)


大野原村
おおのはらむら

[現在地名]秩父市大野原

横瀬よこぜ川を境に黒谷くろや村の南、荒川右岸に位置する。南は大宮郷、東は山田やまだ村、西は荒川を境に寺尾てらお村。秩父往還・川越秩父道の分岐点にあたる。地名は、原野が多かったことに由来するとされる(秩父志)。縄文時代中期・後期の集落跡、古墳群などがある。田園簿では高一八七石余・此永三七貫五八九文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となり、同領で幕末に至る。元禄郷帳では高四一七石余。天明六年(一七八六)秩父郡村々石高之帳(秩父市誌)によると反別は田三町一反余・畑一四七町五反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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