柿木村(読み)かきのきむら

日本歴史地名大系 「柿木村」の解説

柿木村
かきのきむら

面積:一三七・三〇平方キロ

鹿足郡の南西部に位置し、東は六日市(むいかいち)町、北は日原(にちはら)町、北西は津和野町、西は山口県阿武(あぶ)郡阿東(あとう)町・佐波(さば)郡徳地(とくじ)町、南西は同県都濃(つの)郡鹿野(かの)町と境を接する。村の東部を南北に吉賀(よしが)川(高津川)が貫流し、大野原(おおのばら)で木部谷(きべだに)川が合流し、柿木で福川(ふくかわ)川が合流する。福川川は南部の椛谷(かばたに)の奥に源を発して北流する。この流域は当村の約七〇パーセントを占める。山口県との県境に北から高岳(たかだけ)山(一〇四〇メートル)・弟見(おとみ)山(一〇八五メートル)・莇(あざみ)ヶ岳(一〇〇四メートル)・小峰(こみね)山(九二九メートル)、六日市町との村境には鈴(すず)ノ大谷(おおたに)山(一〇三六メートル)・恋路(こいじ)山(九八三メートル)などの中国山地が連なる。


柿木村
かきのきむら

[現在地名]草加市柿木町

青柳(あおやぎ)村の北東にあり、東は南流する古利根川(中川)を隔てて埼玉郡高久(たかひさ)村・中曾根(なかそね)村・道庭(どうにわ)村(現吉川町)、南は同郡八条(はちじよう)村(現八潮市)、北は同郡千疋(せんびき)村(現越谷市)。西境を八条用水が南流する。埼玉郡八条領に属した(風土記稿)。古利根川は近世以前は利根川本流で、武蔵国と下総国の境界をなしていた。同川河道に沿って自然堤防が発達し、その上を江戸下妻(えどしもつま)道が走る。元亀二年(一五七一)一一月晦日の北条家印判状写(内山文書)に「柿木川戸」とみえ、同所などの知行上銭六貫文の同年年貢未進分を立川式部前から一二月一〇日までに請取るよう、内山弥右衛門に命じられている。天正一九年(一五九一)一一月東漸(とうぜん)院に徳川家康から寺領として柿木河戸(かきのきかわど)郷のうちから三石が寄進された(「徳川家康朱印状写」東漸院文書)。


柿木村
かきのきむら

[現在地名]柿木村柿木

吉賀(よしが)川の両岸にある村で、小野原(おのばら)・下河内(しもがわち)・相生(あいおい)・柳原(やなばら)・坂本(さかもと)・夜討原(ようちばら)の六集落がある。柳原で福川(ふくかわ)川が吉賀川に合流する。吉賀川に沿って北上し、日原(にちはら)村(現日原町)へ通じる往還がある。津和野藩主の参勤交代の道である安芸廿日市(あきはつかいち)街道は元禄一二年(一六九九)当村から田丸(たまる)(現六日市町)への道が開かれてからは福川から福川川の左岸を柿木へ向かい、船で吉賀川を渡り、南東の大野原(おおのばら)へ向かった(柿木村誌)。同年に架橋されたが度々流出した(吉賀記)。正保国絵図に村名がみえ、高五七二石余。


柿木村
かきのきむら

[現在地名]出雲崎町柿ノ木

滝谷(たきや)村の北、西は藤巻(ふじまき)村、北・西は高畑(たかばたけ)村(現和島村)。丘陵内の小盆地に発達した集落。当村に源を発する梅田(うめだ)川は高畑・梅田(現和島村)を経て島崎(しまざき)川と合流する。正保国絵図に高三一二石余で幕府領。以降の支配の変遷は藤巻村と同じであるが、幕末には与板藩領となった(旧高旧領取調帳)。天和三年郷帳では高二七七石六斗余(うち山高一石)。


柿木村
かきのきむら

[現在地名]清川村臼尾(うすお) 柿木

岩戸(いわど)村の南西、北東流する奥岳(おくだけ)川南西岸の台地上にある。正保郷帳に村名がみえ、田高二四石余・畑高二九石余、耳忍(みみしの)郷に属した。旧高旧領取調帳では高一一四石余。


柿木村
かきのきむら

[現在地名]竹田市平田(ひらた)

折立(おりたて)川西岸にあり、北は折立村。正保郷帳では長田(ながた)郷に属し、田方四〇石余・畑方八石余で、柴山有と注記される。弘化物成帳では平田組のうち、村位は下、免七ツ二分、田四四石余(四町九反余)・畑一五石余(三町四反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田五斗余(二反余)・開畑九斗(一町五反余)がある。


柿木村
かきぎむら

[現在地名]宇目町千束(せんぞく) 柿木

千束村の北東、市園(いちぞの)川流域に位置。正保郷帳に村名がみえ、田高一四一石余・畑高三六石余、宇目郷に属した。旧高旧領取調帳では高九六石余。寛政八年(一七九六)には小野市組に属し、村位は中、免六ツ(「高反別物成品々書抜帳」県立大分図書館蔵)。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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