山根村(読み)やまねむら

日本歴史地名大系 「山根村」の解説

山根村
やまねむら

[現在地名]青谷町山根

早牛はやうじ村の南、日置ひおき谷の奥部に位置する。南は河原かわら村。本村の集落は日置川東岸山麓に、枝郷引野ひきのの集落が同川西岸山麓にある(因幡志)引野村は正保(一六四四―四八)以前からの内村で、元禄国絵図作成の際載せられることとなった(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。当村は「因幡志」が産物に階田・美濃紙をあげるように、河原村とともに和紙の産地として知られ、この二ヵ村では藩の御用紙も漉上げていた。拝領高は二四四石余、本免は五ツ六分。藪役銀一匁五分二厘が課せられていた(藩史)。「因幡志」では家数六〇。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高三八三石余、竈数一〇〇。

当地および河原村で紙漉を始めた時期は不明であるが、気多けた郡を領有した鹿野しかの(現鹿野町)城主亀井茲矩が発した文禄五年(一五九六)二月四日の掟書(因幡民談記)で「こうそ」「かんひの木」の伐採が禁じられており、この頃にはすでに製紙が行われていたと推定され、「在方御定」寛永一八年(一六四一)一一月条に「一、日置谷かいた、壱束ニ付壱斗五升、同所はなかミ、四斗八升俵壱俵ニ付上拾七束」とあり、当地などを含む日置谷産の紙の値段が定められていた。もっとも河原村の伝承では寛永五年頃美濃国の旅人が同村で病気にかかり、村人の看病に恩義を感じて紙作りの秘法を伝授した。これが山根・河原二村の製紙起源であるという(青谷町誌)

山根村
やまねむら

[現在地名]常葉町山根

常葉村新田作につたさく村の東、阿武隈高地の分水嶺鎌倉かまくら(九六七・一メートル)鳴子なるこ(七六四・九メートル)を東境、殿上でんじよう(八一〇・七メートル)(八一三メートル)を北境とする山村。常葉村から岩井沢いわいざわ(現都路村)へ抜ける都路みやこじ街道が中央を横断する。殿上山の中腹に殿上牧場がある。村名は鎌倉岳の根元に由来するとみられる。縄文時代中期から晩期の土器片や土偶を出土する殿上・雨乞平あまごだいら中谷地なかやじ各遺跡、古墳時代の土師器を出土する余平田よへいだ遺跡があり、鎌倉岳には鎌倉権五郎景政が背負ってきたという怪力伝説がある。字定福じようふくに定福館跡があり、郭・土塁の遺構がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録の常盤六千九二四石余のうちに含まれ、早稲川わせがわ村と合せて九四一石余は神田清右衛門知行地と推定される。

山根村
やまんねむら

[現在地名]長柄町山根

船木ふなき村の南西にあり、伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。地内飯尾いいお寺旧蔵の天正一六年(一五八八)の鰐口銘に上総国長保(長北)郡山根郷小村飯尾とある。この地を支配した飯尾氏は室町時代末期には長南武田氏に属して御小屋みこや城に拠り、大永期(一五二一―二八)飯尾には一五〇戸余あったという(長柄町の文化財)。飯尾寺は日什の開創と伝え、現存の不動堂の南方三〇〇メートルの地にあった。不動堂は飯尾氏の私堂であった。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高九五四石。宝永六年(一七〇九)から上野国吉井藩領になったとみられ、寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では同藩領と旗本水野・筑紫・曲淵・戸塚領、高九七六石余で家数七九。

山根村
やまねむら

[現在地名]智頭町山根

本折もとおり村の南にある。集落は千代川支流土師はじ川の下流域右岸に発達。枝村に能坐のうざすぎたにがあり(因幡志)、能坐は唐櫃からびつ城主佐々木氏に仕えた小林某が同所に居住し、座を設けて能をよく演じたために生じた地名という(初稿八頭郡誌)。東方の谷を越えると南方みなみがた村の枝村船山ふなやまに至った(因幡志)。拝領高は一八九石余。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高二〇六石余、毛付高二五九石余、本免五ツ八分、同年の物成高一三四石余、ほかに川役米五升・藪役銀四分五厘が課されていた。

山根村
さんねむら

[現在地名]九戸村山根

戸田とだ村の北、瀬月内せつきない川流域にあり、傾城けいせい峠の東麓にあたる。全域が丘陵地帯で、瀬月内川流域に耕地と集落が形成され、北は荒屋あらや村。山根井さんねい村とも称された。「奥南旧指録」によると天正一九年(一五九一)九戸政実の乱に際し、九戸城(現二戸市)に籠城した諸士のなかに山根彦右衛門がいる。字山根にある山根館が居館と伝えられる。「参考諸家系図」によると、浅野長吉軍に従っていた松ヶ岡九郎右衛門定吉は南部氏の家臣となり、当村を与えられて山根氏を称したという。

山根村
やまねむら

[現在地名]会見町市山いちやま

市場いちば村の東、小松谷こまつだに川支流朝鍋あさなべ川の下流右岸に位置し、越敷野こしきの台地の西麓山際にあたる。拝領高は一四八石余、本免は五ツ。藪役銀二匁三分が課せられ(藩史)、米子組士栗木氏の給地があった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一六七石余、竈数二六。「伯耆志」では家数二二・人数一一五。享保九年(一七二四)荻名おぎな大谷おおたに山の柴草秣場入会をめぐって寺内てらうち村など一一ヵ村と山論を起こした星川ほしかわ谷一〇ヵ村の一で、また同一三年には長者ちようじや原続き「小原山しようがの原、五輪原」の入会をめぐって、諸木もろぎ村などの山下五ヵ村と争った里方二一ヵ村の一でもあった(以上「在方諸事控」)

山根村
やまねむら

[現在地名]国府町山根

清水すんず村の東に位置する。当地周辺はふくろ川の洪水にしばしば見舞われたらしく、文政年間(一八一八―三〇)の法美郡全図(県立図書館蔵)には当村・新井にい村・神垣こうがけ村の示の入組んだ様子が描かれている。当地には洪水で流された兄弟がそれぞれ三ヵ村に流れついて住みついたとの伝承が残る。拝領高は三二八石余、本免は六ツ七分。寺島氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数二一。弘化四年(一八四七)の上構下札略写(県立図書館蔵)では朱高三五八石余(うち畑高一三石余)で、永荒を引き年開二四石余などを加えた都合高は三八〇石余。物成高は二五一石余(ただし加損米二一石余)で、藪役銀は五匁六分七厘。

山根村
やまねむら

[現在地名]日南町上石見かみいわみ

大倉おおくら(一一一二メートル)の南東麓、南西流する石見川沿いに位置し、村内を玉島たましま街道が通る。南西は駒崎こまざき村・月瀬つきぜ村。拝領高は一〇一石余、本免は五ツ一分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一四八石余、竈数一八。「伯耆志」では林五七町二反余、家数一八・人数九三、鑪山として山根山があった。藪役五匁八分が課されていた(日野郡史)。延享三年(一七四六)の巡見使案内手帳(宇田家文書)によると、鍛冶屋一に運上銀六〇匁が課されている。

山根村
やまねむら

[現在地名]倉吉市山根

上井あげい村の南東に位置する。倉吉往来が通り、東の知坂ちさか(二町一〇間)を越えると佐美さび(現東郷町)に至り、当地には山根茶屋がある。河村かわむら郡に属し、拝領高は四六一石余。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によれば朱高五〇三石余、高五四一石余、うち畑高一七石余、免五ツ一分。悪田加損米八石、藪役銀二匁、棟数四軒・役高八〇人。男八五・女七〇。産土神松上まつがみ大明神であった。

山根村
やまんねむら

[現在地名]山梨市山根

落合おちあい村の西、笛吹川支流の平等びようどう川上流に位置する。もとは落合・正徳寺しようとくじ・山根の三村で一村を構成し、慶長六年(一六〇一)以降分村したという(甲斐国志)。慶長古高帳では落合村に含まれ、幕府領元禄郷帳には落合村枝郷と注記される。領主の変遷は正徳寺村に同じ。貞享元年(一六八四)検地帳(県立図書館蔵)によると高二二一石余、反別は田一四町一反余・畑三町九反余、うち屋敷一町三反余。

山根村
やまねむら

[現在地名]飯山市大字木島

安田やすだ村よりよし村に至る間の小集落で、飯縄山から城山に続く丘陵の麓にある。道は安田より上木島かみきじま村に通ずるいわゆる山根通、これに沿って根越堰ねごしせぎがある。正保御書上には「高七拾四石余 山根村」とみえ、元禄郷帳もほぼ同じく、天保郷帳では九二石八斗三升九合と沼沢地の開拓が進んでいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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